#586~587 『アトリエ』

 かつてアメリカのユタ州に住んでいたと言うウィルさんは、若かりし頃に体験した恐怖体験を流暢な日本語で話してくれた。

 ――あれは僕が大学へと進むのを決めた頃だったと思う。

 生まれはアイダホだったのだが、進学と共に親元を離れてユタへと移った。住む家は全て業者任せで、電話のみで契約した。

「元は画家が建てた家なので、少々不便な造り」とは聞いていた。だがその家に足を踏み込んでみれば、その不便さは想像以上だと感じられた。

 家は、街から少し離れた場所にある一軒家であった。木造の真四角な造りの家。青いペンキが塗られていて綺麗ではあるのだが、外から見ても窓が少ないのが分かる。

 玄関から入れば、その一階部分は“何も無い空間”であった。

 何も無い――とは、誇張ではない。実際その一階部分には窓も何も無く、トイレや裏口玄関すらも無い。ただの真四角な広いだけの空間だった。

 但し、二階へと上がる為の階段だけは存在していた。それは部屋の中央に位置するもので、そこから続く長い階段を上って行くと、家の北側の二階の壁にぶつかるようにして上階へと到着する。

 二階はもっと不便であった。一階が大きな真四角の空間なのに対し、二階はそれを四等分した、四つの小部屋に分れていた。

 内、二つの部屋はキッチンと寝室だった。それはどちらもはっきりと分かる。一つにはシンクがあり、もう一つの部屋には天蓋付きのベッドが置かれていたからだ。

 問題は残り二部屋の方である。それはどちらも用途に対して大き過ぎる間取りであった。一つはトイレで、もう一つはバスルームなのだ。

 それはどちらも足を踏み入れた途端、不安に駆られる程の広さで、しかも部屋の照明は必要な箇所の真上にしか存在していない。つまりトイレの部屋へと入り照明を点ければ、部屋の対角の隅にある便座の真上にだけ明かりが灯ると言った感じだ。

 これがなかなかに不便であり、かつ気味の悪いものであった。トイレは元より、夜に入るバスルームは更に恐怖が募り、がらんとした暗い空間に妙な気配を感じるぐらいであった。

 ――そしてそれは入居して十日目辺りに始まった。

 真夜中の事だ。ドスンと、地響きまで感じられるほどの重い音が届いた。

 ふと目を開ける。今のは夢か幻聴かと思った瞬間、またしてもドスンと音がする。

 階下だ。僕はすぐに察する。一瞬で嫌な想像が頭の中を駆け巡る。泥棒か、それとも殺人鬼か。家のドアは閉めたか。閉めた気はするが確証は持てない。

 そんな事を思っていると、またしてもドスンと音がして、更にはズルズルと何かを引き摺る音が続く。

 血の気が引く。部屋のドアには鍵は無いし、つっかい棒になりそうな重い家具も無い。

 電話は廊下を出た向かいのキッチンにしか無い。どうしようか、このままでは階下の“何者か”が二階へと上がって来てしまうだろう。思いながらも何も出来ないままに無益な時間が過ぎる。

 果たしてどれぐらいの時間が経ったか、気が付けば白々と窓の外が明るみ始め、それと同時に音も止む。僕は全身に嫌な汗をかき、用心をしながら階下を覗いた。

 そこには――誰もいなかった。いつも通りの“何も無い空間”が広がるばかり。だがその日を境に、謎の怪音は毎晩のように続いた。

 空気が、やけに濃密に感じられるようになった。そう言う感覚が来ると同時に、確実にこの家に“もう一人”の存在が感じられた。

 それは家の中のどこにでもいた。キッチンの隅に、寝室の天井の角に、トイレやバスルームの暗闇の中にと――


 ある日の事だった。大学で知り合った友人に家での怪奇現象を伝えた所、半ば面白がって家へと泊まりにやって来たのだ。

「確かに気味が悪い家だな」と、友人は笑う。だが深夜に起こる階下の怪音には、さすがに表情を強張らせた。

「見に行こう」と、僕を誘って階段を降りるのだが、やはりそこには誰もいない。ただ――

「音はここからする」と言う友人の言葉に、僕も頷いた。目には見えないのだが、確かにそこに“誰か”がいて、“何か”をしているのだ。

 翌日、「ここは引き払った方がいい」と言い残して友人は帰ってしまった。僕自身もそう思ったのだが、金も無い苦学生にはそう簡単に出来るものではない。

 ある日の事、特に何かを感じた訳でもないのだが、僕はその家の周りをぐるりと一周回ってみた。すると面白い事に気が付いた。家の内側にいると気付かないのだが、外から見れば家が正方形な訳ではない事が分かった。

 それは家の北側部分――玄関が南側なので、その反対側に当たる部分の一カ所だけ、外に向かって飛び出している箇所があったのだ。

 それは僅か6フィート(メートル換算で約2メートル)ぐらいの出っ張り。部屋にしては狭い大きさである。しかもそれは一階から屋根に向かって真っ直ぐに伸びており、一見すればエレベーターでも通っているかのように見える。

 次に僕は家の内側を探った。まずは一階部分。だがそれらしき箇所を探っても何も見付からない。次は二階となるのだが、二階のその該当する箇所は階段を登った突き当たりの壁である。まさかその壁に何か細工でも――と思い探してみれば、それはすぐに見付かった。取っ手も何も無い壁に手を付けて横に滑らせれば、そこにぽっかりと暗い空間が現われたのだ。

 そこは間違いなく外から見た6フィートの空間で、真っ暗なままに上下へと伸びる縦穴の中に、梯子が一つだけ掛けられていた。

 穴は下へと向かうか、上へと向かうかの二択であった。

 階下から舞い上がって来る微かな空気が、何かの“異質”な匂いを帯びている。

 僕はその瞬間、もうここにはいられないと思った。もちろんその穴の先を覗いてみようとも思わなかった。すぐにその扉を閉め、友人宅に電話を掛けた。

 翌日から僕は、家が見付かるまでと言う条件で友人の家で厄介になる事になった。

 それから約半年後、噂で例の青い家が解体されていると聞いた。そこでやめておけばいいものを、僕は友人と連れだってその家の跡地を見に行ってしまったのだ。

 解体は既に終わっていた。だが、まだその家の瓦礫等は撤去中で、何人かの作業員が“何か”をトラックに積んでいる所だった。

 近付けばそこの解体現場の責任者なのだろうか人が現われて、「見ないでくれ」と言うのだ。

 理由を聞けば、事件に関わるものかも知れない物が地下から出て来たとの事。見れば作業員達が何か布をかぶせた大きな物を運び込んでいる様子が覗える。

 僕はここの家の元住人だと説明し、尚もしつこく食い下がれば、地下から出て来たのはおびただしい数の絵で、しかもそれらはほぼ全て“裸婦像(女性のヌードの絵)”。それも全て同一人物を描いたものだったと言う。

 その瞬間、ふと思い出す。例の縦穴を発見した際に感じた“異質”な匂いは、絵の具の匂いだったのではないかと。

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