#581 『雨の日の喫茶店』

 家から徒歩十五分の所に、私が良く行く喫茶店がある。

 そこは自宅の一角を改造しただけの簡素な作りのお店で、店内の何もかもが手造り風な所が気に入っていた。

 当初はそこのオーナーであるご夫婦で経営していたのだが、ある日を境に旦那さん一人で経営するようになっていた。もちろんその理由は聞いていない。

 店内は縦に長い造りになっていた。長いカウンターテーブルと、その背中側には同じく長いガラス窓。そしてその向こうには花壇の並ぶ庭が見えた。

 私はいつもカウンターと窓の中間に位置するテーブル席に腰掛ける。そこからだと季節の花々が咲く花壇が見えるからと言う理由だったのだが、奥さんが店に来なくなってからはそこに何かが生けられる事は無くなり、少し残念であった。

 ある日曜の事。いつも通りにその店へと向かった。

 出掛け、なんとなく雲行きが怪しかったのだが、運悪く店へと着くや否や雨が降り出した。

 傘も持たずに来たし、これじゃあ当分帰れないなと思っていると、店のオーナーはにこやかに、「こんな日は誰も来ないから、止むまでいていいよ」と言ってくれた。

 私はその言葉に甘える事にして、鞄から小説を取り出し読み始めた。ガラス窓を打つ雨の音と、花壇の土に落ちる雨の音とが微妙にシンクロして、私はその気だるい雰囲気のまま本を一気に半分まで読み進めてしまった。

 顔を上げる。雨はまだ止まない。私はもう既に冷たくなった珈琲を一口啜ると、ふとガラス窓の向こうの人影に気が付く。

 その人影は、花壇の向こうのベンチに腰掛けていた。雨は未だ降り続きとても肌寒いのだが、何故かその人影は長いローブのような黒のレインコートを着込み、すっぽりとフードで顔を覆い隠したまま、そのベンチに佇んでいるのだ。

 ――誰だろう? 思った瞬間、私のカップに新しい珈琲を継ぎ足しながら、「もしかしてあなたにも見えてます?」と、オーナーが聞くのである。

 頷けばオーナーは、「何故か雨に日に限って、あそこに座っているんですよね」と言うのだ。

 瞬間、オーナーの言葉で気が付いた。あれは“人では無い者”だと。以降、私は雨が降りそうな日には店に行かなくなった。

 ある晴れた日の事、店に行くと珍しくオーナーの奥さんがいた。なんでも奥さんは体調を崩し、入退院を繰り返していたらしい。

 ふと、話題が雨の日の人影の事になった。すると奥さんは「まだいるの?」と顔を曇らせ、今度一回、あのベンチの下を掘り返してみようと思うと言うのだ。

 さて、実際にその下を掘り返したのかどうかは知らない。だがそれを聞いたのが夫妻との最後の会話であり、何故かオーナー夫妻は店を畳んでどこかへと引っ越しをしてしまったのだ。

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