#574 『刀傷』
うだるような暑さの午後の日の事だった。
友人と別れて家へと帰る道中、若干の近道である高台の道を選んだ。
その通りに民家は全く無い。ただ、山道を切り開いただけの蛇行する細い道が続くだけだ。
途中、小さな神社がある。とは言っても社自体は長い石段を登った更に上。道路沿いにあるのはその石段が始まる白いコンクリート作りの鳥居のみ。
なんとなくだが僕はその前に自転車を停め、鳥居の下の木陰で休んで行こうと思い付いた。
そうして石段を数段上り、腰を掛けた瞬間だった。パチンと音でもしたかのように視界が白く弾け、気が付けばその瞬きのような一瞬で、空が夕暮れとなっていた。
なんだ今の。思いながらやけにシャツがべた付くのに気付き、汗かと思って下を向けば、何故か白いシャツが黒ずんで見えるぐらいに赤く染まっている。
「なんだこれ!?」驚きながら自転車へと飛び乗り、家路を急ぐ。坂を下りきれば運良く空は真っ暗で、赤く染まったシャツは誰にも見咎められる事なく家へと帰り着けた。
だが、家族はそうも行かない。帰った僕の姿を見て、凄い剣幕で事の次第を聞く。だが僕はそれに対しまるで答えられない。なにしろ何も覚えていないのだ。
「どこに行ってた?」聞かれて僕は素直に、「山の上の神社」と答える。すると同時に母と祖母の顔色が変わった。
「シャツ脱いでみろ」言われて二人の前で裸になると、驚いた事に僕の首元から下腹部に掛けて長く深い傷跡が付いていた。
「刀傷だな」と祖母が言う。だがその傷口は少々ひりつく程度の痛みがあるだけ。傷は深いのだが、そこから覗くピンク色の皮膚の内側は、もはや血も滲まない。
「今日の事は絶対に誰にも言うな」と祖母にきつく言われ、僕は頷く。だが実際は言いようも無い。全く何もかも覚えていないのだから。
それから約十年の時間が経ち、僕は実家を離れて新しい生活を始めていた。
職場で知り合った女性と結婚を果たし、子供もいる。貧乏ではあるが、それなりの幸せな生活を送っている。
ある晩の事、全く何のきっかけも無く、あの夏の日の出来事の全容を一瞬にして全て思い出したのだ。
石段に腰掛け、それから何があったのか。何と遭遇し、何があって何であんな傷口が出来たのか。何もかもをも鮮明に、克明に思い出したのだ。
そして僕は思わずその事を妻に話した。僕の胸にある傷口、何で出来たのかを。ずっと思い出せないままでいた記憶の事を全て妻に打ち明けた。するとそれを聞いていた妻は、「それ、言っちゃあ駄目じゃない」と、とても冷たい表情で言う。すると背後からは、いつ起き出して来たのか五歳になる息子が妻と全く同じ、「それ、言っちゃあ駄目じゃない」と小さな声で言う。
いつの間にか僕の寝間着はべっとりと血で染まっていた。
慌ててボタンを外せば、そこには古い傷と新しい傷とで大きなバツを描くように、ざっくりと深く長い刀傷が付けられていた。
どうでもいいが、同時にまた全てを忘れた。先程妻に話した十年前の夏の日の出来事は、一瞬だけ全てを思い出し、また一瞬にして全てを忘れたのである。
あの晩の事は、妻も息子も覚えてはいなかった。
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