#559 『壁の声』

 いつの頃からか、とある壁の一画から妙な音――と言うか、声が聞こえるようになった。

 それは決まって、キッチンから廊下へと出た所にある、真向かいの壁なのである。

 最初は、上か下の階の住人の上げる物音だと思っていた。私の住む部屋はマンションの四階で、もちろん上下左右には入居者がいる。そこの生活音が、なにかしらの作用でその壁に響いて来ているのだと思っていたのだ。

 ちなみにその物音は、隣人のものではない。なにしろその壁の反対側は小さな部屋であり、私が物置のようにして使っている場所なので、隣の物音がそこに聞こえる訳が無いのである。

 しかもその壁の薄さは僅か十センチ足らず。軽く手で叩けば、中は空洞であるかのような音がする。

 ある時の事、やけにその壁がうるさく、何やら女性二人が言い争いでもしているかのような声が聞こえて来ていた。

 もちろんその内容までは分からない。とても低くてくぐもっており、誰かが喋っていると言う事だけは分かるのだが、その会話の中身までは不鮮明過ぎて何も聞き取れない。

 うるさいなぁ、そう思いながらその前を通り過ぎようとした時である。手に持った重い荷物が「ガン」と壁に当たり、思った以上に大きな音を立てた。

 瞬間、壁の音がおさまった。あぁ、向こうにも私の生活音は聞こえているんだと思った瞬間、やけに近い場所から声が聞こえて来た。

「ねぇ、お母さん。今絶対にここから聞こえたよ」

「それ私にも聞こえたわ。今度こそ間違いないね」

 鮮明に、その声は私の耳に届いた。確実にその壁の中から聞こえる声なのである。

 念の為にとその裏側の部屋を覗く。もちろんそこには誰の姿も無い。私は再び壁の前へと戻り、軽く二度ノックをしてから、「あの……すみません」と声を掛けた。

 刹那、その壁から悲鳴が轟く。その声は一瞬にして遠ざかり、壁の前から逃げ出したのだろうと想像出来た。

 やがて向こう側に声が増えた。おそらくは男性であろう、太く低い声であった。

「ちょっと退いてなさい」と、その声が壁から聞こえた。私はなんとなく嫌な予感がして、慌ててキッチンへと逃げ込んだ。

 ゴン!と、激しくも鈍い音がして、目の前の壁の一部が蜘蛛の巣状にヒビ割れた。

 私は驚き、あらん限りの悲鳴を上げた。同時に少し遅れて、向こう側からも悲鳴が轟く。

 だがその悲鳴は僅か一瞬の事で、その蜘蛛の巣状のヒビ割れの中心がごそりと崩れて落ちると、同時にその悲鳴は止む。

 壁の中は、僅かな空間を隔てその反対側の壁材が見えるだけ。もちろんそこに人がいよう筈も無い。不思議な事に逆側の壁を見に行けば、そこにはなんのヘコみ跡も存在していないのだ。

 以降、壁の声は途絶えた。私は怖くて、その壁の穴は塞がずにそのままにしている。

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