#557 『急急如律令』
Hさんと言う男性が十年ほど前に体験した話だ。
――早朝、暗い内に目が覚めた。昨夜は相当に悪酔いして帰って来たと言うのに、何故かやけに目覚めが清々しい。
あぁ、なんだか何年……いや、何十年ぶりかで「良く寝た」と言った気分だった。
起き上がり、珍しくも朝食を取る。すると床にぽつんと、“何か”が落ちているのが目に入った。
拾い上げればそれは何かの水晶なのだろうか、ゴツゴツと無骨な小さな石である。何故かは分からないのだが、それは私の手のひらの中ですうっと熱を帯びたようだった。
ふと、その石をどこで受け取ったのかを思い出す。昨夜、会社の同僚と飲み歩きをしていた際、“どこかの店”で、“誰か”にこれを渡された事を。
そして私は何故か、「これは手放しちゃいけない」と感じ、その石を布製の小さな小袋へと入れ、上着の内ポケットにしまい込む。そうして家を出たのだが、不思議な事にその日は丸一日、運が良かった。――と言うよりも、いつものような理不尽な目に合ったり、仕事上のトラブルがあったりと、そんな面倒が一切無かったと言った方が正しいか。
以降、私はその石だけはどこに行くにも肌身離さず持ち歩く事にした。同時に私の身の回りの出来事が、どれも良い方向で進んでいるような感覚があったのだ。
それから三ヶ月ほど経ったある日、出先でふと背後から声を掛けられた。
振り返ればそれは、いつぞや私にその石をくれた老婦人ではないか。
老婦人はにこやかに笑い、「上手く行ってますか?」と問い掛けて来る。どうしてだろうか、その石を渡された際の事はほとんど全て忘れていたと言うのに、その婦人の顔を見た瞬間に全ての出来事を思い出したのだ。
「とても上手く行ってます」と私が答えると、老婦人はさらににこやかな笑顔になり、「急急如律令(きゅうきゅうにょりつりょう)」と言い残して去ろうとするのだ。
「どう言う意味ですか?」とその背中に向かって聞けば、「その石の事ですよ」と、婦人は言った。
さてその石であるが、そんな事があった数日後、訳あってそれを手放してしまった。
深夜近くの電車の中、やけに黒い影をまとった女性の姿が目に入った。
私は咄嗟に気が付いた。あれは“死相”だなと。そして私はその女性の所まで行くと、黙って小袋に入った石を手渡した。
女性は何も言わずにそれを受け取った。そしてその女性の顔を見た瞬間、あぁそう言えば私も前はこんな暗い表情をしていたなと。
「急急如律令(きゅうきゅうにょりつりょう)」と言い残し、私は次の駅で降りた。
振り返れば、女性は私の方を見ずにずっとその小袋を握り締めた手を眺めているだけだった。
それを見て、きっとあの女性はもう大丈夫だと、何となく私はそう感じていた。
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