#556 『濃霧』
私は昔からソロキャンプが好きで、愛車である4WDに荷物を積み込み、誰も来ないであろう山中に分け入っては、孤独な週末を過ごす事を趣味としていた。
ある日の事、N県に程近い山の中へと登り、沢に近い場所を選んで落ち着いた。
その日の装備はテントではなく、タープ(天幕型の日除け)を選んだ。秋の自然を肌で感じたい為、外と遮断されないままで眠りたいと思ったからだ。
沢の水でビールを冷やし、自然石で暖炉を作り、やがて準備は整った。
火を起こし、だらだらと焼き魚や缶詰をつまみにしながら酒を傾けていると、やがて夜の帳が降りて来た。
いい感じに酔っ払ったなと思っていると、ふと沢の向かい側の岸で何かが動いた気配がした。
目を凝らす。だがその向こう岸まで炎の灯りは届かず、そこに何がいるのかすら判別が出来ない。
熊とかだったら危険だなと身構えていると、その何かは二足歩行であるかのような足音で、沢の上流へと向かって走り去って行ってしまった。
人なのか――? そんな疑問は湧いたが、こんな濃厚な暗闇の中で何の灯りも持たずに人が歩ける訳も無く、小動物か何かだろうと言う結論で終わってしまった。
そうしてしばらくすると、やけに周囲が煙くなって来る。どうやら山頂の方から沢を伝って夜霧が降りて来ているらしい。気が付けばあっと言う間に辺りが霧に包まれ、全く視界が利かない状況となってしまう。
これはもう何も出来ないなと、タープの中にランタンを吊して寝袋の中へと潜り込む。同時に強烈な眠気が襲って来て、私は一瞬にして眠り込んでしまった。
さて、それからどれぐらいの時間が経ったのだろう。夢うつつのまま眠りから覚めるが、泥のような眠気が覚醒を阻む。だがそれでも私の聴覚だけはしっかりとその周囲の音を拾っており、どうやら焚き火の近くで数人の男が何かを喋っているらしい、やけに楽しげな談笑が聞こえて来た。
誰だこのやろう――と、叫びたいのだが声が出ない。まるで寝言のようにむにゃむにゃと呟き、また再び眠りに落ちた。
翌朝、タープの周辺は荒らされていた。持って来た食材は全て食い散らかされ、酒に至っては沢の水で冷やしておいたビールまでもが空となっていた。
実はそこでもう一泊をする予定だったのだが、こうなってはもうそれも無理である。私はすぐにタープを畳み、帰る準備に取り掛かった。
だが、片付けが終わる寸前になって再び例の濃霧が襲って来た。逃げる間もなく辺りは真っ白な闇となり、立って歩く事すらままならなくなる。
そして昨夜と同様、私は強烈な眠気でその場に崩れ落ち、ザックを抱きかかえたまま地面にひれ伏して眠りに落ちてしまった。
果たしてどれぐらいそうやって眠ってしまったのか、目を覚ませば既に霧は晴れていた。
ただ、持って来た荷物は何もかも無くなっていた。私は急いで車へと舞い戻り、車体の下に忍ばせておいた合鍵を使って逃げ帰った。
家へと帰って驚いたのだが、その山中で過ごした時間は延べ三日間だった。どうやら二度目の濃霧で眠り込んでしまった際に、丸一日を飛び越えてその翌朝に目が覚めたらしい。
なんとなくだがその時にも、近くで誰かの談笑を聞いた気がする。
そしてその言語は日本語どころかどこの国の言語でも無く、全く耳に馴染みの無い、知らない言葉だった気がした。
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