#555 『5:55』
とある2LDKのマンションへと引っ越しをした。
元よりあまり物を持たない生活をしていただけあって、少々寒々しいぐらいの広い空間となった。
居住部分はリビングだけで事足りた。僕にとっての唯一の贅沢品であるかのようなオーディオデッキを置き、煎餅布団をそこの前に敷き、そこで寝起きする生活が始まった。
ある朝の事、ちょっとした異音に気が付いた。目が覚める直前に小さくコツンと、部屋のどこかで音が鳴ったのだ。
その時は、その物音に深い疑問は持っていなかった。ややあって目覚まし時計代わりのオーディオが動き出し、僕の好きな曲が暗い部屋の中、スピーカーから流れ出す。
起床は朝の六時。これは昔から変わらないいつものルーティンである。
さて、その起きる直前の物音である。気が付いて初めて知ったのだが、どうやらその物音は毎朝、同じ時間に鳴っているらしい。オーディオから曲が流れる少し前、必ずその物音に気付くようになった。
コツン――と、鳴って目が覚める。時計を見れば5:55。僕は布団から顔を上げ、暗いリビングの中を見回す。だがもちろん、変わった所は何も無い。何が鳴っているんだ――と考え込むが、それも心当たりが無い。それから僕は、翌朝からは必ずその物音で目が覚めるようになってしまった。
コツン――と鳴り、時計を見れば必ず5:55。これは確実に時計が内蔵された“何か”が鳴っているのだとは理解出来るのだが、僕が所有している物の中にそのような機器類があるとしたら、まさにそのオーディオしか無いのである。
念の為と、一度そのオーディオの電源を抜いた事があった。それでも物音はした。やはりその部屋のどこかで、“何か”が鳴っているのだ。
そうしてその音の正体が掴めないまま、一ヶ月が過ぎた。
ある日の朝、物音よりもずっと早くに目が覚め、布団の上で身を起こしぼんやりしていると、コツン――と、例の音が鳴った。
ふと気が付いた。これはリビングの物音ではなく、何も置いていない二つの洋間のどちらかから鳴っている音だと。
僕はその晩、空き部屋のままにしておいた部屋の一つに布団を敷いた。それは北側の方の部屋で、窓にレースのカーテンを引いている以外は何も無い部屋である。
さてその翌朝、物音は鳴った。その際に僕ははっきりと確信した。その部屋から出入り出来るベランダの窓が鳴ったのだと。
すぐに窓を開けて外を確認するが、もちろんの事何も異変は無い。
そしてその次の日の朝、5:55よりも先に起き出し、その時刻になるまで窓を見て過ごしていた。
原因は掴めた。僕はその日の内に不動産会社へと出向き、代わりになる部屋を探してくれと訴えた。
不動産会社はすぐに別の物件へと案内してくれた。そして僕は迷わずそこに決め、引っ越しの手配を始めた。
異音の原因は、“人の手”だった。ベランダの天井部分から突然に人の手が伸び、その拳がコツンを窓を叩いてすぐに引っ込んだのだ。
これは後から知った事だが、窓の外で起きた事故には、告知義務が無いのだと言う。
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