#546 『飛び出し坊や』

 誰でも一度は見掛けた事があると思う、道路脇などに設置された子供の絵の看板。通称“飛び出し坊や”である。

 今回はその看板にまつわるお話しを。

 ――僕が家へと帰る道すがら、頭上に歩道橋の架かる場所がある。そして何故かその歩道橋の階段の真下に、飛び出し坊やの看板が立っている。

 普通は道路脇に置いておくものではないのかといつも思う。日中ですら目に付かないような歩道橋下の暗がりに置いておくのは、まるで意味が無いと思うからだ。

 とある夜の帰り道、その歩道橋へと差し掛かった際、例の飛び出し坊やの真横に誰かが座っているのを目撃した。

 さすがに慌てた。なにしろ夜である。しかも歩道下の暗がりである。人がいると思わずその前を通り掛かり、突然その暗闇からぼそぼそと人の喋る声が聞こえて来たのだ。驚かない訳が無い。

 それは中年の男性だった。まるで僕の事など気にも留めない様子で、懸命に、しかも優しい口調でその子供姿の看板に話し掛けているのである。

 薄気味悪い。そう思いながら通り過ぎる。――だが、話はそれで終わりではなかったのだ。

 それから同じ状況に出くわす事が度々あった。条件はほぼ同じで、夜に、歩道橋の階段下で、例の飛び出し坊やの看板に話し掛ける“人”である。

 違う点は一つ、その話し掛けている“人”と言うのが、常に違うと言う事のみ。いつも男女の区別無く、そこに誰かが座り込み、優しい口調でその看板に話し掛けていると言うそんな場面。

 最初は酔っ払いか知的な部分に問題がある人だと思っていたが、どうやらそうではないらしい。見ればどの人もごく普通の――と言うか、比較的おとなしく、落ち着いて見えるような人々ばかりなのである。

 とある夜の事、またしてもその状況に差し掛かった。いつも通りに無視をして通り掛かろうとはしていたのだが、そこに座っているのはショートカットの若い女性で、例の看板の横に座り込んではめそめそと泣いているのである。

「あの……」と、その女性に声を掛けられた。見れば視線は完全に僕の方を向いている。

「何か?」と訊ねると、女性は顔を上げて、「助けてください」と言う。

 少しだけ考えた挙げ句、「僕の家はすぐそこだから、一緒に行きましょう」と告げた。

 女性はほんのちょっと苦悩したような表情を浮かべ、「バイバイね」とその看板に向かって呟き、立ち上がった。

 女性は、ユカと名乗った。彼女もまたこの周辺に住んでいる人らしい。

 ユカさんは何故かとても怯えていて、僕の家に着くなり「毛布を貸してください」と、頭からそれをかぶって丸くなってしまった。

 その晩は、彼女を家に泊めた。そしてそれっきり、彼女は僕の家から出なくなってしまったのだ。

 三日が過ぎ、四日目の宿泊。困った事に僕と彼女はとうとうそのまま男女の関係となってしまった。

 そうなるともう彼女はまるで出て行こうとせず、完全に僕の家に居着いてしまう。

「時折帰ってるから大丈夫だよ」と、彼女は笑う。そして僕もまた、彼女が家にいるのが当たり前になってしまっている事に気が付いた。

 ある晩、家に帰ると突然ユカさんは、「出て行く」と言い出した。理由は聞いても話してくれない。ただヒステリックに、「さようなら」と僕の手を振り切り、出て行ってしまったのだ。

 僕は懸命に追い掛ける。すると彼女は例の歩道橋の下へと向かい、そこでしゃがみこんでしまった。

「ねぇ、どうしたんだよ」と、僕は彼女に優しく話し掛ける。だが彼女は何も答えずに泣きじゃくるだけ。

 ふと気付く。ここにあった筈の、飛び出し坊やの看板が見付からない。

 僕らの目の前を、会社帰りだろうスーツ姿の女性が通り過ぎる。その女性は怪訝な顔で僕を見ている。

 僕はユカさんを懸命になだめながら、何となく今度は“僕の番”な気がしていた。

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