#532 『閉店間際の喫茶店』

 友人と居酒屋のハシゴをし、酔いを覚まそうかと深夜までやっている雑居ビルの喫茶店へと向かった。

 喫茶店はビルの二階にあった。大して美味くもない珈琲を啜り、どうでも良い話題を繰り返していると、俺は突然の腹痛に見舞われ店のトイレを借りる事となった。

 個室へと入り、酷い下痢と戦っていると、背後にある小窓から妙な音が聞こえた。

 振り返ればそこに人の影があった。俺は驚き、「うわぁ」と悲鳴を上げると、その窓の向こうから「うへへ」と言う男の笑い声が聞こえて来た。

「おいこら!」と言う俺の怒鳴り声と共に、その影は消えた。慌てて用を切り上げズボンを履いて、背伸びでその窓から外を覗き込む。

 窓は最初から開いていた。だが、窓の外に掛かる“目隠しルーバー”と呼ばれる斜めの桟が内側を覗けないように嵌め込まれており、向こう側からこちらを覗こうとするならば、室内の天井方向しか見えないようになっている。

 逆にこちら側からは外の下方向しか見えない。それでも懸命に目を凝らせば、なんとなく輪郭程度は見て取れる。窓の向こうには隣のビルだろう壁があり、こちらの窓の少し下辺りに、庇(ひさし)か何かだろう人の立てるスペースがあるように見えた。

「なぁ、マスター。トイレに覗きが出たぞ」

 出るなり俺がそう告げると、マスターはさして驚きもせず、「それは災難だったね」と言うばかり。警察を呼ぶべきだと言っても、「大袈裟過ぎる」と笑うだけ。さすがに俺は「もう二度と来ない」と宣言して店を出た。

 それから数ヶ月程経ったある日、会社の上司に誘われて飲みに行った先が、例の喫茶店が入っている雑居ビルの三階にあるスナックであった。

 上司との話もそこそこに、俺は下の階で起きた覗きの件をスナックのママに話すと、「あらまだそれ続いてたんだ?」と驚かれた。更には、「それ、覗きじゃないから」とまで言われ、どう言う事なのかを聞いてみれば、「ウチの店のトイレから覗いてみて」と言われた。

 用を足すついでに、言われた通りにトイレの窓を開けた。窓は跳ね上げ式で下の方が少しだけ開くタイプなのだが、それでも階下を覗く程度ならば充分であった。

 そして俺は驚いた。隣のビルとの隙間は僅か二十センチにも満たず、喫茶店の窓の外には確かに隣のビルの庇部分はあったのだが、もはやそこは廃屋なのだろう、窓には内側から板が張られて封鎖されていたのだ。

 もちろん、どこからかよじ登ったり、その庇まで降りて来られそうな場所はどこにも無い。

 むしろそこに人が割り込める程の空間は存在していなかったのだ。

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