#525 『早く逃げろ』
とある土建業者に勤めている。
ある時、パチンコを中心としたギャンブルにハマり、生活費もままならなくなって、住む家を追い出される事となった。
そこで目を付けたのが、会社の四階にある居住スペース。かつては独身寮と言う名前の場所だった所だ。すぐに社長に直談判をしたのだが、何も渋る事なく「いいよ」と、そこを使わせてもらえる事となった。
但し、少しだけ気になる点はある。今までにも何人か出稼ぎ外国人がやって来てはそこに住み、すぐに出て行ってしまう事実を考えれば、“何かある”と考えてもおかしくはない。
さて、会社から合鍵をもらって荷物や布団を運び込んだはいいが、そこは想像していたよりもずっと広くて殺風景だった。
自社ビルの外階段を四階まで上がり、ドアを開ける。するとまず、右手に大きな台所。そして左手側にはロッカールームがある。更に右手奥には、八人が同時に使えるシャワールーム。左手奥にはトイレの個室が計六個。かなりの大人数が住めるよう設計されているらしい。
正面ドアを開けると、そこが居住空間となっているのだが、驚く程に何一つとして調度品が無い。グレーのリノリウム床が広がる大部屋。ベッドはおろか、テーブルや椅子さえも無い。本当にただの広大な空き室なのだ。
優に三十人はザコ寝が出来るであろう部屋の一番奥に、荷物を運び入れた。
だが後はもう何もする事が無い。なにしろ部屋にはテレビはおろかラジオさえも無いのだ。明日からはどうやってこの孤独さを紛らわそうかと考えていると、すっと部屋のドアが開いた。
見れば誰かがドアの隙間から中を覗き込んでいる。俺は咄嗟に会社の事務所連中の誰かだろうと思い、「お世話なります」と声を掛けたのだが、何も応えが無い。
出て行ってみると、既にどこには誰もおらず、同時にトイレのドアだろう閉まる音が聞こえて来た。
見れば確かに個室の一つのドアノブが、赤い表示になっている。おそらくは誰かがトイレを借りに来たのだろうと、そう思っていた。だが――
玄関は、施錠されていた。俺が内側から鍵を閉めたままだった。
じゃあ一体、あれは誰だ? 思わず玄関先にある黒電話に飛び付き、社長と連絡を取る。
「あぁ、気にするな。良くある事だから」と、社長。
「いや、気にするなって言ったって……」と話した辺りで再びのドアの音。今度はシャワールームの方だ。電話を切り上げながらドアを開ければ、やはりそこにも誰もいない。
気味が悪いな。思いつつも今からそこを出て行く訳にも行かない。仕方無しに俺は早めの夕飯を取り、早々に寝る事に決めた。
布団に入り、横向きになりながら漫画をめくっていると、突然部屋の照明が消える。
俺は慌てた。なにしろ他には光源が無いのだから、真っ暗闇になってしまったのだ。
照明のスイッチは――部屋の入り口の壁だ。要するに部屋の隅に陣取ってしまった俺は、手探りでそこまで移動しなければならない。だが――
ごにょごにょごにょごにょ……ぼそぼそぼそぼそ……
突然、周囲に声が湧き出した。しかもそれは一人、二人の声ではない。まるでその部屋全てを埋め尽くすほどの大人数が同時に発する、国籍不明の外国語であった。
慌てて飛び起き、部屋のドア目掛けて走り出す。だが何歩も行かない内に“誰か”にぶつかりぐらりとよろける。
人が、ひしめき合っていた。手を伸ばせば“誰か”に触った。それでも俺は懸命に人を掻き分けて入り口へと向かい、これまた手探りでドアノブを探し出し、外へと向かう。
バンと音をさせて開けた玄関口には、窓の外から入る街灯の明かりに照らされ、天井から垂れ下がる大勢の足があった。
もう無理だと思った。這いながら外へと出て、その晩は会社のシャッターの前で一夜を明かした。
翌日、社長に理由を聞くも、「あそこでは誰も死んではいないし、事件があった事も無い」と言われた。だがいつも出て行く人達は同じ事を話すのだと言う。
俺が布団や荷物を取りに戻れば、俺が寝ていた辺りの壁には、様々な国の言語で殴り書きがされていた。
その中には一つ、日本語も混ざっていた。
「早く逃げろ」
もちろん俺は、素直にそれに従った。
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