#511 『募らない入居者』

 四十年ほど前の話である。

 会社の先輩に飲みに誘われた帰り道、その勢いで「ウチに泊まって行け」と言うのだ。

 僕自身もその時はしたたかに酔っていて、勢いで「宜しくお願いします!」とか返事をしてしまったのだが、それがそもそもの間違いだった。

 家飲み用にビールを数本、つまみと菓子を買って先輩の家へと向かう。そうして到着した先は、驚く程に古めかしい四階建てのアパートメントだったのだ。

“コーポ○富士”と書かれた看板があるのだが、コーポと富士の間の空白部分は、既に抜け落ちていて読めない。下手をしたら築年数は三十年を遙かに超えているだろう程に、老朽化の激しいボロアパートであった。

「三階だからちょっと上るぞ」と、先輩は慣れた足取りで痛みの激しい外階段を上って行く。

 一応は僕もその後へと続くのだが、何故か違和感が物凄い。一体何がおかしいのだろうと思っていると、先輩自らがそれを語ってくれた。

「ここ、もう俺以外の入居者誰もいないからよ」

 言われて気付く。確かにどこの部屋の窓にも明かりが灯っていないのだ。

「えっ、なんで先輩しかいないんですか?」僕はその後を追いながら聞けば、「何でも建て替え予定で、既に入居者の募集はしてないんだとよ」と、先輩はぶっきらぼうに言う。

 申し訳程度にしか灯っていない廊下の照明を頼りに階段を上り、三階へと辿り着く。そうして先輩はその廊下の中間辺りに位置する部屋のドアを開け、「何も無いけど入れよ」と、僕をうながすのだ。

 電波の入りが悪いからと言い訳しつつ、ザラ付く画面のテレビを点ける。ノイズが酷くて誰が何をしゃべっているのかすら良く分からない。どころか、時折その番組とは関係ないだろう声がちょくちょく挟まり、逆にそちらの方がより鮮明なのである。

 飲み始めてすぐに、階上から人の足音が聞こえ始める。「ここ、先輩以外誰もいない筈じゃあ?」と聞けば、「良くある事だから気にするな」と、ビールを傾けつつ先輩は笑う。

 やがて隣の部屋から壁を叩く音が聞こえ始める。廊下からは悲鳴のような、すすり泣きのような得体の知れない声が響き、ドアの前を誰かが通り過ぎる足音までする。

「ねぇ、先輩」と呼び掛けると、先輩は相変わらずな赤ら顔で笑いつつ、「良くある事だから気にするな」とだけ。

 トイレに行くと、既に電気が点いていてドアが開かない。先輩を呼びに行くと、「良くある事だから」とドアを蹴飛ばす。すると自然にドアが開く。もちろん中には誰もいない。

 やがて飲み疲れて、僕は先輩が用意してくれた布団に横になる。電気が消え、豆電球ばかりの暗い部屋の中、女性のうめき声が響き渡る。見れば枕元の壁からうっすらと何かが飛び出しているのがその暗闇の中でも確認が出来た。

「先輩!」

「いいから、いいから」と、暗闇の中で先輩は笑う。「良くある事だから」

 まんじりとも出来ないまま朝を迎えた。僕は寝ている先輩を放ったまま、こっそりと家を辞した。

 週明け、会社で見掛ける先輩の肩に何かが乗っているのが見えた。

 ――手だ。思った瞬間、僕の視線に気付いた先輩は適当にその手を払いのけ、「良くある事だから」と笑った。

 この人、絶対に長生き出来ないなと思った瞬間だった。

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