#510 『白い部屋』

 午後七時、研究所の通用門を出てふと上を見上げる。

 第二棟と呼ばれるその建物の二階から漏れ出る光を見て、私はふと立ち止まる。

「意味が分からない」と小さく呟き、また歩き始める。その二階の窓には重い遮光カーテンが渡されているのだが、その端の所々から漏れ出る蛍光灯の明かりに、私は眉をひそめるのだった。

 ――私は大学を卒業し、その製薬会社に入社して二十年目になるのだが、女としてはかなりの異例らしく、医薬部外品であるビタミン剤の開発部門の部長を務めている。

 商品開発は当たりよりも断然外れの方が多いのだが、それでもそれなりにやり甲斐は感じていた。

 さて、その私が勤める部署には少々変わったタブー(禁忌)が存在する。それがその、第二棟の二階に位置する“白部屋”だ。

 場所としては、第一棟と第二棟の真ん中に位置する部屋なのだが、そこは果たして廊下なのか、部屋なのか。第一棟の二階の突き当たりのドアを開けると、まさにその部屋へと行き着く。ただただ真っ白な壁の、何も置かれていない長細い部屋がそれなのだ。

 部屋の窓全てには暗幕が渡されており、外がまるで見えない。そして天井には少々大袈裟なのではと思う程に、照明が張り巡らされている。そして噂によると、その部屋の照明はこの棟が建って以来、ただの一度も照明が消された事が無いのだと言う。

 第一棟のドアから入ると、部屋の反対側に第二棟へと続くドアがある。普段は自由にここを出入りする事が出来るのだが、通路ではなく部屋でもないその存在に誰もが疑問を持つらしく、余程ではない限りそこを通りたがらない。

 その部屋の照明を点けたり消したりする為のスイッチはどこにも存在しておらず、二ヶ月に一度はその蛍光灯全てが新しいものに替えられているとも聞いている。

 過去に一度、私は当時の上司にその部屋の言われを聞いた事があるのだが、返事は一言、「何も聞くな」だった。そして少し間を置き、「俺もその理由は聞かされてないんだ」と付け加えられた。

 それから年月が経ち、私がその部屋を含む第二棟の責任者となった時、その部屋の管理マニュアルを見せてもらったのだが、やはりそれはかなり異質なもので、照明を絶やすなと言う事に加え、カーテンを開けるなだとか、照明はこまめに取り替えろと言う旨が書かれているだけであった。

 ある初夏の事である。その時に取り組んでいた新商品の開発で、連日長い残業が続いていた。

 やがてお盆休みが訪れたが、私にはまるで休める見通しが無く、開発陣も交代制で夏休みを取り、後は全て出勤に宛てられる事となっていた。

 そんなとある暑い日の事、遠雷轟き空が白く感光する。これは豪雨が来るなと思っていた頃、突然の落雷で開発棟全てが停電してしまったのだ。

 一瞬だけ、例の白部屋の事が脳内をよぎった。間違いなくあの部屋も停電している筈――と思った矢先、女性従業員の悲鳴が薬品室から聞こえて来た。

 見に行けば部屋は水浸しで、しかもその溜まった水と言うのがやけに泥臭いのである。

 悲鳴を上げた子に何があったかを聞くも、「暗かったから分からない」としか言わない。ただ、確かにその部屋の中で水が吹きこぼれる音がして、そして何者かが蠢いているであろうニチャニチャと言う粘っこい音が聞こえたらしい。

 そして明かりが戻ればこの有様。どこからか湧いて出た臭い泥水が、その室内を汚していたのだと言う。

 果たしてその現象が、例の白部屋と関係しているかどうかは分からない。ただ大昔、戦時中の空襲がここいら一帯を焼き払い、ただ一つだけあった小さな沼に人々が押し寄せ、そこで多くの方が亡くなったと言う事実が、この地の文献に残されているだけである。

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