#498~499 『カラオケボックス』
これ、もしかしたら心霊現象とかじゃなくて、私自身の心の病かも知れないんですが――と、M子さんはそう前置きをして話してくれた。
――週末、仲の良い友人数人と、カラオケボックスへと遊びに行った。
朝から入り、夜までのフリータイム。当然、誰もが歌いまくり、飲みまくり状態だった。
夜、そろそろ時間も終わりの頃かなと思った辺りで、友人の一人が「トイレ付き合って」と私に話し掛けて来た。
もちろんいいよと、バッグだけ持って廊下に出ると、トイレの少し手前にあるドリンクバーのコーナーは、同い年ぐらいの若い子達で溢れかえっていた。
「こりゃあトイレどころじゃないんじゃない?」と。言いつつも一応中を覗いてみる。すると廊下の喧噪などウソであるかのように、トイレの中は無人であった。
私と友人は、ラッキーだったねと笑いながらお互いに個室へと消える。
そこで私は用を足しながら、なんとなく不自然さを感じた。なんだかやけに、“静か過ぎる”と思ったのだ。
普通ならばトイレの外にあるドリンクバーの前の談笑などが聞こえて来ても良い筈。それにこのような場所にありがちな、BGMも聞こえて来ない。どころかトイレだと言うのに絶え間なく聞こえる筈の空調の音すらも無い。
やけに不自然だなと思い個室のドアを開けると、先に用を済ませたのだろう友人が、「ねぇ、なんか変じゃない?」と、怪訝な顔をして私の思った事と同じ話をするのだ。
トイレから出る。そして私と友人は息を飲む。さっきまでそこにたむろしていた子達の姿がどこにも無い。しかも廊下はやけに薄暗く、トイレと同じように静寂で満ち溢れているのだ。
廊下の左右には客室が並んでいるのだが、そのどこからもカラオケの曲が聞こえて来ない。どころかどの部屋のドアも開きっぱなしで、人の気配すら無いのである。
中を覗けば暗い室内に、モニターの明かりだけが灯っている。しかもどの部屋も今の今まで人がいたであろう痕跡があり、ソファーには荷物や上着が置かれ、テーブルの上の料理は食べかけのまま、グラスの氷はまだ溶けてもいない。
「ねぇ、M子。ちょっとこれおかしいよ」と、不安そうな声で友人が言う。
私と友人は急いで自分達の部屋へと戻るが、やはりそこも無人で、しかも全員分の荷物がそこに置きっぱなしになっているのだ。
「出よう」と私が言うと、友人は迷う素振りも無く、「うん」と頷き、上着と荷物を持った。
私達はエレベーターの前へと向かうが、階数表示がされていないのを見届け、階段へと向かった。廊下はやはり薄暗かったものの、階段はさらに暗く、足下さえもおぼつかなくて降りるのにとても難儀をした。
ロビーへと出るが、そこにも人の姿は無い。それどころかカウンター向こうの店員の姿さえも無い。
「何かあって逃げたんじゃ?」と、友人。私はその言葉にとてつもない恐怖を感じ、「私達も逃げよう」と、店を転がり出た。
驚いた事に、街角からも人の姿が消えていた。夜の駅前の繁華街である上、週末の土曜日なのだ。人がいない訳が無い。
腕時計の時刻は、まだ午後の八時を回ったばかり。だと言うのに、街の明かりはそろそろ始発が動き出す時刻であるかのように暗く、店の明かりは灯っていない所ばかりが目立ち、点いていても中には人の気配すらも無い。
確実に、“何かが起こった後”の街だった。私は足下から這い上がって来る怖気(おぞけ)に、懸命に耐えながら、友人に「駅に向かおう」と、促した。
途中、駅外の連絡通路へと出られるエスカレーターに乗ったのだが、何故かエスカレーターは起動せず、自力で登るしかなかった。そうしてなんとか駅前までは辿り着いたのだが、向こうに見える駅の入り口に、巨大な人の姿のシルエットを見付け、私と友人は立ち止まる。その人影は、人にしてはかなり大き過ぎるのだ。
本能が、あれに見付かったら危ないと教えてくれる。私と友人はその手前にある植え込みに隠れるようにして姿を隠し、今来た道を戻った。
「駅を離れて、大通りに出よう」と言う事になった。
だが駅前の通りを離れると、更に街の明かりは寂しく暗くなって来て、途中途中に点在する街灯の光以外、何も目印が無くなって来る。
歩く先の向こうに、青い看板のコンビニエンスストアを見付けた。何故かその店からは煌々と灯りが洩れていて、そこがとても安心出来た。
見れば店内には、店員さんらしき制服姿の男性の姿があった。その店員さんは何かを手に持ち、急ぎ足でレジ奥に消えて行く。私と友人は迷わずその店の中へと飛び込んだのだが、それと同時に店内の明かりが一斉に消えた。
「あの、ちょっと! すいません!」私が店の奥に向かってそう叫ぶと、一拍置いて、「本日の営業は終了しました」と言う、抑揚の無い男の声が、とても陰気な口調で小さく聞こえて来た。
私と友人は、悲鳴を上げて店から飛び出る。やっぱりどこにも寄らずに大通りを目指そうと話し合い、汗が噴き出るのも構わず小走りに暗い道を急いだ。
さて、次の交差点を左に曲がれば主要道路へと出る筈。と、そこまで来て気が付いた。街灯が、そこで途切れているのである。
次の交差点までは、歩いても十メートル程度。だがそこまで辿り着くのに、次の街灯が無いと言うのは、とても心細い。――いや、そんな生易しい話ではない。心細いどころか、到底無理な状況だと思った。向こうに何の灯りも見えない暗闇を、手探りで進むと言う行為は、この状況下で絶望を意味するとさえ感じたのだ。
どうしようかと友人と顔を見合わせていると、背後からやけに明るい光が近付いて来た。みればそれは一台の黄色のタクシーで、運転手は私達の真横に車を停めると、「君たち、こんな場所で何やってんの?」と、咎め口調でそう言うのだ。
「安全な場所に連れて行ってあげるから」と言われ、私と友人はそのタクシーに乗り込んだ。
タクシーはライトをハイビームにして、真っ暗な街角を照らしつつ車を猛スピードで走らせる。
「良くこんな所に来れたね」と、運転手。「普通じゃ絶対に無理だからね」と笑い、細い路地を何度か曲がって、やがて遠くに明るい街角の見える場所へと辿り着いた。
タクシーはその少し手前で停車した。「もうこのまま真っ直ぐ行けば大丈夫だから」と、私達を置いて、再び暗い街の中へと引き返して行く。
遠くに、週末の夜の繁華街が見える。私と友人はお互いに手を繋ぎながらそこを目指したのだが、途中でその手を振りほどかれる。
「私、ここまでかな」と、友人。私は何故か素直に、「分かった」とその場で別れ、いつしか見慣れた都会の喧噪に中にいた。
振り返ればやはり、その道の向こうは異質な暗い街角で、どの人も、どの車も、そちらの方向へと向かう者はいないのである。
――と、お話しはここまでなのですがと、M子さんは言う。
あれから同じ場所へと向かった事があるんですが、思った通りに、例の暗い街角は見付ける事が出来ませんでしたと苦笑する。
僕が、「別れた友人の子は?」と聞けば、M子さんは軽く首を傾げ、「分かりません」と言う。
今にして思えば、それが友人だと思い込んでいただけで、その子がどこの誰なのか全く思い出せないんです。――名前も、そしてどこで知り合った友人なのかもと、M子さんは言う。
但し、思い返せる事はあると言う。タクシーを降り、現実世界へと向かう途中で、その友人に手を振りほどかれた時、振り返って見たその子の顔は、人のそれではない異形であったと。
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