#490 『船霊様(ふなだまさま)』

 岩手の方で、漁師をしている。

 最初の頃は大きな船で雇われて働いていたのだが、人との付き合いが鬱陶しくなって来て、今では中古の船を購入し、一人で船を操っている。

 一人は気楽な反面、苦労も多い。何から何まで一人でこなさなくてはいけないからだ。

 しかも一人の場合に限り、常に絶望的な危機を想定しておかなければならない。それは操舵中の船から投げ出された場合。――そう、落ちたら最後、誰も助けてはくれないのである。

 ある時、ふとした瞬間に高い波で船が跳ね、俺は船体から投げ出された。

 危惧していた事がとうとう起こってしまった。海面に顔を出し船を探すが、それはすでに泳いで追いつけるような所にはいなかった。

 どんどん遠ざかって行く船。それは僅か一分足らずで視界から消え去って行ってしまった。

 後はもう絶望しか残されてはいない。何度も何度も先輩の漁師達から聞いた話だ。一縷の望みを賭けてただ海の上を彷徨い、やがて力尽きてくたばる。多くの単身の漁師が、そんな死に方をしていると聞く。

 さすがに俺もこれで終わりか――と、空を見上げて諦めかけていた時、遠くからこちらへと近寄って来る一隻の船が見えた。

 急いで手を挙げ、助けを求める。だが、その船はどうにも見覚えがある。どんどんこちらへと近付いて来るにつれ、それは確信に変わる。――俺の船だと。

 船はゆっくりと眼前へ近付き、見れば船体からは縄梯子までもが降りている。俺はそれを伝って上へと登るが、やはり中には誰もいない。

 こりゃあ神様の仕業だ。思い、俺はすぐに操舵室に飾る船霊様に手を合わせる。その瞬間だった――

「頼みを一つ、聞いてくれないか」

 背後から、しっかりとそんな声を聞いた。

 俺は瞬間、船霊様だと察し、「出来る事ならばなんなりと」と頷いた。

 ――ってな事があったんですよと、Sさんは笑う。それを聞いて私は、「その船霊様のお願いは何だったのですか?」と質問した。

 するとSさんは、操舵室の神棚から空になったコップを取り上げると、そこになみなみと清酒を注いだ。

「時々でいいから酒が欲しいんだそうですよ」と、Sさんは笑う。何故かその神棚に置いたコップは、どんな波でも転げ落ちて来ないそうなのである。

「よっぽど酒好きな神様なんでしょうね」とは言うが、私は違うと思った。操舵室から続く向こうの部屋の椅子に座る、一人の男性の影を見て、きっと助けてくれたのはその人で、かつてはこの船の持ち主だった人なのではないかと。

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