#488 『何かが通り抜ける場所』

 日本に来て十年目の、Sさんのお話し。

 ――ワイオミング州にある祖父の家に、“出る”のだと言う。

 僕が小さい頃から、父にそう教わった。二階のとある廊下の一角には、常に何かしらの人影が漂っていると言う。

 いつか見たいと僕が言うと、妹がもう少し大きくなったら全員で行こうと父は言った。

 やがてそれは叶った。車でハイウェイを駆り、二十時間。到着した家は想像以上に古く、そして大きかった。

 問題の廊下は、西側の階段を上がった先にあった。――が、そこはもう既に父が話してくれた過去のものではなくなっていた。廊下の左右には床から天井まで届く大きな鏡で覆われ、廊下の全てが巨大な合わせ鏡となっていたのだ。

 もはやそこは父の話にある“怖い場所”では無く、むしろあっという間に僕と妹の良い遊び場所となってしまった。

 眺めれば、永久に続く鏡の迷宮。その中には、笑顔なままの僕と妹の姿もある。僕達が面白がってそこに貼り付いていると、ふと視線の端の方でうごめく人影を見付ける。

 視線を変えて、廊下を見る。だがそこには誰の姿も無い。しかしまた再び鏡の方へと向き直れば、確かにそこには“人のよう”な、黒い塊の影があるのだ。

 だが、おかしい。何故かその人影には、僕らと同じような永遠に続く鏡の繰り返しが無い。ただ単体で、そこに存在しているのだ。

「幽霊だ」と、その時の僕は興奮した。本当に出たのだ。父の言っていた事は本当だったと感動していると、隣に立つ妹が、何か小声で独り言を話しているのだ。

 うん――うん――そうだよ、と。まるでその黒い人影に向かって喋り掛けているかのように妹は頷き、そして笑った。

 夜、僕はこっそり、その時の出来事を父に話した。すると父はかなり困惑したような顔になり、「お爺ちゃんには言うな」と口止めをした。

 夜、ふと気が付くと隣で寝ていた筈の妹の姿が無い。慌てて両親の寝ている部屋へと向かい、その事を告げると、「二階かも」と、父は言う。

 僕も一緒にと付いて行けば、思った通りに妹は二階の鏡の前にいた。だが――

「いいよ、皆一緒に行く?」と、鏡に手を置きながら妹は笑う。見ればその鏡の中には、数多くの真っ黒な人影が点在しており、一目で危険な事態だと理解する。

 僕は大声を上げて鏡を叩き、父はその隙に妹を担ぎ上げ、鏡から引き離す。そうして妹は無事に取り返す事が出来たが、翌朝には昨夜の全ての記憶を失っている様子だった。

 後日、父は祖父と一緒に鏡の撤去に向かった。だがいくらもしない内に戻って来て、「もう帰ろう」と僕らに言うのだった。

 後で聞いた話だが、鏡を取り除けばその背面の壁には大きな穴がいくつも開いていたと言う。

 壁の向こうはすぐ外である。だがその穴は、奥が見えない程に暗く、遙か先まで続いていたと父は語った。

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