#485 『異世界に一つだけの花』
詳しくは話せないのだが、かつての戦時下に激しい銃撃戦のあった土地での事。
私は一風変わったツアーに参加し、そこの防空壕の中の見学へと立ち会った。
壕へと降りる入り口には鉄柵が設けられ、厳重に鎖で閉められていると言うそんな場所。
一人一本と言う照明器具を持たされ、暗闇の壕へと降りる。踏み込んだ瞬間、私は「異世界に来た」と言う意識を噛み締める。そこには今尚、人の“念”と言うものが濃密に充満しており、怒りや哀しみ、絶望と苦しみの感情が渦を巻いているようであった。
暗闇はどんな闇よりも濃く、強力なサーチライトを持ってしても僅か数メートル先の漆黒を追い払う程度にしか利用出来ない。私は他の参加者達とはぐれないよう、注意深く奥へと進んで行く。
すると、前を行く女性のツアーガイドさんがとある場所で立ち止まり、私に声を掛けて来る。
「良かったらあちら側まで行ってみませんか?」
ガイドさんのライトが示す先には、大きな岩が一つある。
「何かあるんですか?」と聞けば、「実はとても珍しいものがあるんです」と言うのだ。
さて、参加者は他にもいると言うのに、どうして私一人に声を掛けたのかは分からない。だがとりあえず黙ってそのガイドさんの後を付いて行けば、確かにそこには珍しいものがあった。無骨な岩と土ばかりの壕の中に、一輪のスミレの花が手向けられていたのだ。
敢えて聞きはしなかったが、おそらくはここでも相当な数の人が亡くなっている筈。ならばこうして供養がされていても不思議ではないと思うのだが――
「そのお花、もらって行ってはいただけませんか?」と、ガイドさんが私に言う。
「えっ、どうしてですか?」と、聞き返す。意味が分からない。供養の為に捧げられた花を、どうして私が持って行かなくてはいけないのだろうか。
だがガイドさんは執拗に、「お願いしますから」と、私にそれを勧めて来る。とうとう私は根負けして、その場でしゃがみこんでその花を手に取れば――
瞬間、全てを悟って全身が粟立った。花は、捧げられていた訳ではなかった。その場所、その地面から直接に生えているのだ。
植物的には絶対に有り得ない事である。例え奇跡的にそこに芽が出たとしても、光が射し込まない暗闇の中で花が咲く訳が無いのだ。
「ちょっと……」と振り向けば、もうそこにはガイドさんはいない。それどころか、先程まではあちこちで見え隠れしていた他の参加者達のライトの明かりさえ見当たらない。
瞬間、身体の芯から湧き出る程の震えが私を襲う。もはや悲鳴すら出ない。私は今にも崩れ落ちそうになる膝で踏ん張りながら、一歩一歩と出口を求めて歩き出した。
「出してーっ!」と、鉄柵を内側から叩きながら私は叫ぶ。それを見たツアーガイドが慌てて飛んで来て錠を外した。
普段は声を荒げるような私ではなかったのだが、その時ばかりはこんな目に合わせたガイドに向かって罵声を浴びせた。揉めに揉め、そしてしばらく時間が経った後に向こうの言い分を聞いてみれば、壕の中で私を岩場まで誘った事実も無ければ、中に置いて行ったと言うつもりも無かったと言う。
実際、外に出て人数確認をガイド二人で行った所、人数はしっかりと合っていたそうなのだ。
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