#480 『借家』
昭和四十年代頃の話だ。
当時、仲の良かった女性の先輩に誘われ、その人の家を訪ねた。しとしとと小雨ふりそぼる暗い午後の日の事だった。
住所を頼りに辿り着けば、どう言う訳かその先輩は留守で、開けっぱなしの玄関のドアに“少しだけ外出します ドアは閉めないで”と張り紙があった。
私は呑気に、「お邪魔します」と上がり込む。先輩はいつ出て行ったのだろう、卓袱台に置かれた湯飲みからはまだ湯気が上がっている。
ふと気付けば、居間の前の廊下に女の子が一人立っていた。聞いてはいなかったが先輩には子供がいたんだと、私は勝手に解釈し、「お邪魔してます」と頭を下げた。
その子は黙って私の向かいに座り、熱心に本を読み始めた。次第に雨脚が強くなり、窓から差し込む日の光も、徐々に暗くなって行く。
突然、「バン!」と、音がした。方向から察するに、開けっぱなしの玄関のドアが風雨で煽られ、音を立てたのだと思った。
私は慌てて立ち上がる。しっかりとドアを閉めて振り向けば、いつの間にそこに来ていたのだろう女の子が、私の目と鼻の先に立っていたのだ。
「きゃあ」と、私は驚き悲鳴を上げ、「脅かさないでよ」と頭を撫でながら玄関を上がる。ふと、通り過ぎる瞬間に、その子が笑ったような気がした。
風雨はますます強まり、家中の窓と言う窓ががたがたと音を立て始めた。私は玄関先にいる女の子が気になり、「こっちでお母さん待ってましょう」と声を掛ける。
少しして、女の子が居間の前の廊下を横切って行く姿が見えた。何故かその子の顔には、“ドアは閉めないで”と書かれたドアの張り紙が貼られており、気にもせずにその子は廊下の奥へと引っ込んで行ってしまった。
私は廊下へと出る。そこは既に真夜中のような暗さがあり、妙に怖くなって来た私は急いで靴を履いて家を出て行ったのだ。
後日、先輩に会うなり、「ずっと待ってたのに来なかったじゃない」と文句を言われた。
私は私で、ずっと先輩の家の中で待っていた事を伝えると、どうやらそこは先輩の家ではなかったと言う事が判明した。
その日の夕刻、勝手に上がり込んでしまった非礼を詫びに、先輩と一緒にその家を訪ねる事にした。
家は、あった。だが玄関のドアには大きく、“借家”と張り紙がされており、それすらも長い風雨でさらされたかのように、くしゃくしゃになって黄ばんでいたのだ。
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