#478 『第二号廃槽』

 先日と同じく、水族館にまつわるもう一つの話をご紹介したいと思う。

 ――念願の水族館勤務が叶った。かなりの地方ではあるが、やる気は嫌と言うほどあった。

 仕事はなかなか過酷ではあったが、それ以上に“楽しい”が勝っていた。

 さてその水族館であるが、気になる場所が一つある。それは館の奥の方にある、第二号廃槽と呼ばれる水槽。結構な大きさの淡水用の槽なのだが、どう言う訳か周囲をパーティションで囲い、見えないようにしてしまっているのだ。

 だが完全に廃槽としている訳ではなく、未だに水を循環させてはいる。しかし中に魚は一匹もおらず、手入れもしていないせいで槽の内側は張り付いた藻でジャングルのようになっていた。

 その槽が利用されていない理由をあちこちで聞いて回るが、誰もその件について話したがらないどころか、「詮索するな」と脅される事も少なくはなかった。

 ある日の事、一日の仕事も終わり、まだ少しだけ時間が空いていた事もあり、例の第二号廃槽を一人で掃除しようと思ったのだ。

 ダイバースーツを着込み、槽の縁に立つ。照明は真上にいくつも点いているものの、周囲をぐるりと取り囲む藻の壁で、やけに暗く濁って見える。

 ちょっとだけ生理的に嫌だなと思いながらも、勢いを付けて槽に飛び込む。

 手に持ったデッキブラシで片っ端から藻を削ぎ取って行こうかと思っていると、突然頭上から、「何やってんのや!?」と怒鳴り声が聞こえて来た。

 見ればそれはベテランのスタッフであるHさんで、普段は声を荒げる事など無い人なのに、やけにその時ばかりは感情的な物言いで僕を叱るのだ。

「いや、ちょっと掃除を」と言うと、「そんなもんええからはよう上がって来い!」と、更に怒鳴る。その声を聞き付けたのか、周囲から人が集まり、口々に僕の事を罵り始める。

 やがて館長までもが駆け付けて来て、「アホウ! 今すぐ上がって来い!」と、怒鳴り付ける。それに対して僕が、「何でですか?」と聞き返せば、やはり理由は言わず、「ええから上がって来い!」と、顔を赤くして叫ぶだけ。

 誰もが必死に僕をそこから上がらせようと説得しているのだが、なんだか僕自身はそれがやけに楽しく思えて来て、「それじゃあ、掃除行きまーす!」と陽気な声を上げて水中に沈む。わざとなのだが、何か逆らえない程の奇妙な意志でそんな真似をしたのだ。

 背後で、誰かが飛び込む水音が聞こえた。そして僕は一瞬の間で首を絞められ、ほとんど無理矢理で暴力的なやり方で槽から引き上げられてしまった。

 僕を引き上げたのは上司のFさんで、槽から上がるや否や、顔面を嫌と言うほどに何度も殴り付けられた。しかも誰もその行為を止めようとはしないのだ。

 その後何度か、“自主退職”を勧められたり、「出て行け」と先輩達に脅されたりを繰り返しながら今に至る。

 果たしてその第二号廃槽で過去に何があったのかは知らない。だが、たまにその槽の外側をぐるりと回って歩いていると、“それ”に出くわす事がある。

 ゆるりと藻を揺らして通り過ぎる“何か”。その何かは、藻の隙間からぎょろりと僕を睨み付け、通り過ぎる。

 その“何か”と、僕の視線がぶつかる。その“何か”は、確実に知性を備えた生物の眼光なのだ。

「あれ、何ですか?」と聞くが、やはり答えてくれる人はいない。

 おそらくは、誰も知らないのである。

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