#477 『写り込むダイバー』

 幼い頃から海に憧れ、暮らして来た。

 初めて連れて行ってもらった水族館は、まるで全てが宝石箱のような気さえした。

 大人になったら海の近くに住むぞと心に決めていたのだが、憧れむなしくオフィスの連なる都心部で働く事となってしまった。

 だがある時、会社と自宅の中間辺りに、小さな水族館が出来たのだ。

 私にとってはそれが海に繋がる唯一の接点みたいなもので、オープン当日から足繁くそこに通うようになっていた。

 中は、想像していたよりは広く感じた。館の一番奥には大水槽があり、まるで映画館のスクリーンのような巨大な窓から魚の群れを眺める事が出来た。だが――

「今日もいる」と、私はつぶやく。その巨大水槽の内側、向こうの窓に張り付くようにしながら泳ぐダイバーの姿。掃除をしているのか、それとも魚の餌でも撒いているのか。とにかくそのダイバーは、いつも水槽の中を自由に回遊しているのである。

 とある夜の帰りの事。やはりいつも通りに、水族館へと立ち寄った。

 もう間もなく閉店と言う辺りで、小学生らしき女の子二人を連れたお母さんに、「写真お願い出来ませんか?」と、声を掛けられたのだ。

 快く、「はい」と言ってカメラを受け取る私。そしてその家族を水槽の前に立たせ、カメラを向けた時だった。例のダイバーさんが、偶然にもその家族の背後をゆっくりと泳いで通過して行く姿が見えたのだ。

「あっ、ごめんなさい。ダイバーさんが通過するまで待っててもらえますか?」

 聞くがその親子は後ろを振り返り、きょろきょろと辺りを見回す。そして、「いえ、大丈夫ですよ」と、またこちらを向くのだ。

 タイミングが悪い事に、ダイバーさんは窓に張り付くようにしてその家族の背後に漂っていた。だが、その家族が良いと言うのだから仕方無い。私はそのままカメラのシャッターを切り、「どうですか?」と、カメラを手渡した。

 家族はとても喜んでくれた。だが私だけ、釈然としない顔になる。ダイバーの姿がどこにも写っていないのだ。

 家族がそこから立ち去り、ダイバーもまたゆるりとその窓から消えて行こうとする瞬間、私は手持ちのスマートフォンでそのダイバーを写してみた。

 やはり、そこには何も写らない。ダイバーはそんな私に軽く手を振りながら消えて行った。

 そこでようやく私も気付く。普通、こんな底の深い水槽に降りるのならば、背中にボンベぐらい背負う筈だろうと。

 そのダイバーは素潜りな上、黒のツナギの服だった。

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