#470 『連れて来た客』
埼玉県某所にてバーを経営しているのだが、ある晩、深夜零時を過ぎた辺りで不審な客がやって来た。
まだ二十代半ばぐらいだろう若い男性で、その身なりや仕草で、あまり誠実そうな印象は受けなかった。
男はカウンターに着くなり、「何でもいいから水割りを」と注文して来る。そして取り出した煙草に火を点けるのだが、その手は有り得ないほどに震えていて、まともにライターも持てない程だった。
カウンターに座る常連客の一人が、その男の顔を覗き込み、「にいちゃん、人でも殺したのか?」と聞く。一瞬、面倒な事にならなきゃいいけどなと危惧したのだが、その若い男は首を横に振りながら、「殺してはいないが、もしかしたら見殺しにしたかも知れない」と言うのだ。
どう言う事だと聞けば、その若い男は、この先にある峠の中に、ナンパした女性を置き去りにして来たらしい。
「ただ、車ん中でヤっちゃおうと思ってただけなんだ」と、男は話し出す。
何でも街中で声を掛けた女性を車に連れ込み、そのままひと気の無い山中へと分け入り、無理矢理に襲うつもりだったのだと言う。
だが、その女性は全く抵抗しなかった。こりゃあこの女もその気だったのだろうと思ったのだが、どうにもその態度が奇妙で、襲われている間、ずっとゲラゲラと笑い続けていたらしい。
「何がそんなに可笑しいんだよ」と聞けば、その女は、「だって皆見てるよ」と言う。
そこで男は気付いた。ひと気の無い山中だった筈なのに、車の外には大勢の人が立ちはだかってその様子を伺っていたと言うのだ。
男は悲鳴を上げて車のエンジンを掛ける。すると女はそれを阻止しようと組み付いて来たので、そのまま車外へと放り出し、一人でここまで逃げて来たと語った。
「だから俺、その女の子、見殺しにしちゃったかもなんスよ」と、男は涙を浮かべて言う。するとその様子をボックス席で聞いていたもう一人の常連が、「それってやけに髪の長い、紫色の服の女じゃないのか?」と聞いて来たのだ。
若い男は、「そうです」と答える。すると常連客は、「もうそれ、手遅れだから気にしなくていい」と言うのである。
若い男は、結局、水割りをちょっと舐めただけで帰って行ってしまった。
男が出て言った後、「なんで分かった?」と聞いたならば、「その女、ずっとあのあんちゃんの後ろに憑いてた」と答える。
「じゃあやっぱ、置き去りにされて亡くなっちゃったのか?」
「いや、逆だ」と、常連客。「その女にたぶらかされて、山中まで連れて行かれたんだろう」
その後、例の若い男性客がここを訪れる事は無かったが、私は未だにその安否を気にしている。
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