#464 『遅れて来る男』
私は生来とても単純な男らしく、良く他人から、「悩みとか無さそうだな」と皮肉られる程だった。
映画を観れば内容はなんであれ大抵は泣けるし、ボクシングやプロレス等の試合を見れば恐怖と興奮で夜に眠れなくなるぐらいなのだ。
ある時、友人からの勧めで自己啓発本を借りて読んだ。
開いた一頁目で感銘を受け、「僕もこう生きて行かなければ」と、決意した程だった。
翌朝の事。玄関先で靴を履いていると、ドアが「ゴン!」と音を立てる。誰かが外から蹴ったのかと思いドアを開けるが、誰の姿も気配も無い。
駅へと着き、改札を抜けようとした瞬間、私の一人手前の辺りでブザーが鳴り、ドアが閉まった。
前の人は、ドアが閉まる前に運良くすり抜けが出来たようだった。私はそれを見送りながら、Suicaをパネルにかざした。
会社へと着く。エレベーターの前へと到着すると、既に上へと行くボタンが押されている。だがそこには私以外の人影は無い。
今度はそれに乗り込むと、降りる階のボタンが押されている。そうして自社のフロアでエレベーターを降りると、事務員の鈴木さんがドアから顔を出して周囲を見回している。
「おはようございます」と私が挨拶すると、鈴木さんは、「誰か入れ違いでエレベーター乗りませんでしたか?」と聞いて来る。
「いいえ、誰も?」答えると鈴木さんは、「おかしいなぁ」と首を傾げ、「確かにドアがノックされたんですよ」と言うのだ。
今日はなんだかおかしな日だなと思いつつ、デスクに向かう。パソコン横に淹れ立ての珈琲が入ったマグカップを置いていたのだが、一口も飲んでいないのに気が付けば半分ほどが減っていた。
入力作業の時はもっと大変で、キリの良い所で中断してトイレに立つと、戻って来るまでにいくつかの入力が終わっていた。
「誰かこれ、イジった?」聞くが誰もが首を傾げる。お金の絡む入力作業な為、僕はそこまでの全てを一度白紙に戻して、再び最初からの作業を始めた。
午後から得意先へと出向いた。約束の時間に辿り着けば、先方の事務員さんは、「あれ?」と言った表情で私を見る。「先程、一度来られましたよね?」と聞かれ、私は首を横に振った。
帰りはそこそこに遅くなり、私は「直帰します」と会社に連絡を入れ、駅へと向かう。
改札にはほとんど利用客の姿は無く、私は空いている改札の一つへと向かう。そして数歩手前で「バン!」とドアが閉まり、ブザーが鳴った。もちろん誰の姿も無い。
家へと帰り、借りた本の表紙を眺めた。きっとこれが原因だなと思いつつ、最初の一頁目を開く。
“意識を常に数歩前へ! 他人よりも数秒早い人生を生きろ”
どうやったらそんな事が出来るのかは知らない。ただ、私は自分で思っている以上に単純に出来ているらしいと言う事だけは理解出来た。
もうこんなものに感銘を受けて生きるのはやめよう。むしろ私なんか、人よりも数歩遅れている程度でちょうど良いのではないだろうかと。
翌朝、玄関のドアを施錠しさぁ行くかと言った辺りで、背後のドアが「ゴン!」と鳴った。
改札をくぐれば、私の背後で「バン!」とドアが閉まる音がする。
振り返れば誰もいない。私はそれを眺めながら、「追い付いておいで」とばかりに、小さく手招きをした。
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