#462~463 『納豆とヨーグルトの消費期限』
食うに困り、一番声を掛けてはいけない人に声を掛けてしまった。
名前は、新藤さん。地元でもかなり有名な人で、俺よりも五つ年上なのだが、ろくな噂が絶えた事が無い。例えば人身売買をしているだの、未成年の少女に売春させているだの、どこそこの暴力団の関係者だのと、内容はひどいものばかりだった。
だが常々、「困ったら俺の所に来い。面倒見てやっから」と言われ続けていたせいで、やめておけばいいものをつい頼ってしまったのである。
「もう住むとこ無いんです」と告げると、新藤さんはとても嬉しそうな顔になり、「大丈夫、家も仕事も世話してやるから」と、俺をとあるアパートまで案内してくれた。
入ってみて驚いた。そこのアパートの部屋は全てがワンルームで、しかも驚くほどに狭い。
三畳程度の部屋が廊下の左右に均等に並んでいて、しかもどの部屋にもドアと言うものが存在していなかった。もちろんどの部屋も中が丸見えで、布団とテレビが直に床に並んでいる程度の場所に、ガラの悪そうな男達が生活をしているのだ。
俺はそこで、「チマ」と呼ばれる、全身タトゥーの人を紹介された。なんでもチマさんは、そこのアパートの管理人なんだと言う。
僕は階段下から入れる一番奥の部屋をあてがわれた。だが、そこには住居人がいるらしく、既に置かれている荷物と布団が見えた。
「ここ使って」と、チマさんは言う。その後ろで新藤さんがニヤニヤしながら俺を見ていた。何故か二人とも、部屋に入って来る様子は無い。
「でもここ、誰かいるんじゃ……」言うと新藤さんは、「いいんだよ、好きに使って」と笑う。
「荷物が邪魔なら全部売っ払ったり、捨ててもいい。とにかくこの部屋の物は好きに使っていいから」と言うのだ。
その日から、俺の新しい生活が始まった。寝て起きたらすぐに仕事で、アパートの前に停まったバンに乗り込み、日雇いなのだろう解体作業現場の仕事へと就かされた。
早朝から夜の九時まで働かされ、貰った金は一日僅か千円。ピンハネされた分はきっと、家賃と食費と言う事なのだろう、そんな調子で連日の過酷な労働へと送り出される羽目となった。
ある晩、部屋の掃除をしていると、先住者のものだろう部屋の隅で丸まっていた作業着の中に、財布を見付けた。中身は運転免許証と、二枚ばかりの千円札。免許証には“荒井康隆”と言う名前の目付きの鋭い男の写真が載っていた。見れば年齢は俺と同じだった。
「こいつは一体、どうなったんだろう?」と言う疑問も無くはなかったのだが、部屋のものは好きに使っていいと言われている以上、その財布はその瞬間から俺の物になった。
部屋には小型の冷蔵庫があった。開けてみると中には一週間分ほどの納豆とヨーグルト。見ればそろそろ消費期限が迫って来ていたので、腹を満たすためだけに俺はその二つを貪り食った。
深夜、廊下で人の話し声。どうやら片方はチマさんのようだ。
「アイツ、どうなんスか? もうそろそろヤバいんちゃいますか?」
「いや、なんかまだ平気っぽいな。大体は三日か四日ぐらいでおかしくなるんだけどな」
誰に対し、何を言っているのかは分からない。俺は気にせず、明日の為に無理して眠る事にした。
その部屋に住んで一週間目の事。その日はようやく貰えた休日で、まだ布団の中でごろごろと寝転がっていると、「まだいたのか」と、部屋の外から新藤さんの声。見れば廊下には新藤さんとチマさんの姿があった。
「あ、すいません。すぐに布団上げます」と言えば、「いや、いい」と、二人は中に入って来ようとはしない。
「体調はどうだ?」と聞かれ、「別になんともないです」と、俺は答える。すると二人は首を傾げて戻って行ってしまった。
午後から俺は、徹底して部屋の掃除をしてやろうと決めていた。部屋には何故か手付かずのダンボール箱が山のように積まれており、まずはそれを処分する事から始まった。
中には、生活に必要最低限のものばかりが詰め込まれていた。鍋に茶碗に、換えの服や下着類。その辺りは納得行くのだが、何故か次のダンボール箱を開けると、またしても似たような荷物が出て来る。結局、全ての箱を開けきる頃には、ほとんどが同じ品揃えの物ばかりが五つ六つと並んだのだ。
夜、またしても冷蔵庫の中の納豆とヨーグルトを食いながら、俺は考えた。
これは一人の人間が同じものを集めたと言うよりも、別の人達が同じものを持ち込んで、それが集まっただけなのではと。
では、持ち込んだ人間は今どこへ? 考えると、ろくでもない想像にしか行き着かない。更に言えば、ここの住人全員が俺の動向や様子を伺い、観察しているようにも見える。
俺、もしかして今現在、何かとんでもない状況下にあるんじゃないかなと思った時だった。
「お前、何食ってんの?」と、背後から声が聞こえた。見ればそれはチマさんで、その背後には同じアパートの住人達もがいる。
「何って……冷蔵庫の中のもん食ってますが」と答えると、住人達は皆、口を押さえて吐きそうな顔になる。
「バカヤロウ、お前、ちゃんと消費期限見て食ってんのか?」
チマさんの言葉に、「もちろん見てますけど」と、もう一度その日付を見る。確かに消費期限を一日か二日過ぎてはいたが、特に問題も無く食える。
そこに、血相を変えて新藤さんがやって来た。
「お前、血迷ったか?」と聞かれ、「何がですか?」と俺は答える。そして、布団の横に無造作に捨ててある納豆とヨーグルトのゴミを見て、新藤さんまでもが口を押さえて「ぐぷっ」と嫌な音をさせた。
「あ、これってもしかして誰かの買って来たものだったんですか?」
聞くが誰も答えない。どこかで誰かが、「あれ、ヤスタカのだよな?」と話す声が耳に届いた。
「おい、お前ちょっと部屋から出て来い」と、チマさん。見れば新藤さんまでもが、来い来いと手招きをしている。その時だった――
「新藤、チマぁ、ビビってねぇで、お前らがこっち来いよ」
俺の口から、思いも寄らぬ言葉が飛び出た。しかもそれは決して俺の声ではなく、もっと別の誰かの声に聞こえた。
ぎゃあと、誰かの悲鳴。俺が覚えているのはそこまでだった。
その先はとても断片的で、無理矢理に部屋の中へと新藤とチマの二人を放り込み、出て来ようとするのを部屋の外から蹴り飛ばすと言う記憶が、ちらほらとあるぐらい。
完全に目が覚めた頃には既に朝で、俺は元いた家の近くの公園のベンチの上だった。
それから俺は、実家へと戻った。今は親とも和解し、細々とバイトで稼ぐ毎日。
俺は時折、新藤さんの事を思い出しては、「いつか仕返しされるんじゃないだろうか」と不安になっていたが、結局なんの連絡もないまま今日に至る。
今でも時々思う。あのアパートで過ごした半月程の時間は、まるで昼寝の中で見た悪夢のワンシーンだったのではないかと。
だが、現実ではある。俺は結局、そのまま持ち出して来た“荒井康隆”の財布を愛用しているのだ。
俺は何故かあれから、納豆とヨーグルトがとても好きになってしまった。
自分の部屋には小型の冷蔵庫を置き、いつもその二つだけは欠かさないようにして保存している。
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