#452 『境界線』

 引っ越した先のマンションに、とても気になる場所がある。

 それは玄関を出た斜向かい。廊下を挟んだ向かい側にもずらりとドアが並んでいるのだが、その斜向かいの住人がいつもそのドアの前に、綺麗に積んだ盛り塩が置いているのだ。

 辛気くさい――と、いつもそう思っていた。日中ならまだしも深夜に帰宅した時などは、なるべくそちらに視線をやらないようにして家の玄関を開ける。とにかく、家に帰る度にそのドアの前を通らなくてはいけない事に、いつも不愉快さを感じていたのだ。

 ある時、管理会社に電話をしてそこの部屋の住人の事を聞いた事がある。するとどうやらそこの部屋は女性が一人で住んでいるとの事。

 もしかしてそこ、事故物件か何かですかと訊ねる。だが返って来た答えは「違います」で、おそらくは不浄なものをそこから入れたくないと言う意識で、盛り塩をしているのではないかと言う返事だった。何でも今は、単なるお清めの為に塩を盛る家庭も少なくないのだと言う。

 それでもやはり気味悪い事には変わり無く、俺は毎日のように顔をしかめてその場所を通り過ぎていた。

 ――ある深夜の事だった。同僚との飲みの後、ほろ酔い気分でマンションへと帰り、例のドアの前を通り掛かった際に、ちょっとした悪戯を思い付いたのだ。それは“盛り塩”を、“盛り砂糖”に替えると言う悪戯。どうせ見たって分かりはしないだろうと言う気分で、俺はそれを実行に移してしまった。

 こっそりとその皿を拝借し、家で塩と砂糖を取り替えると、元の場所に戻す。どうせ後日にはその住人がまた塩を盛るのだろうと理解はしていたのだが、一度火が点いた好奇心は止められなかったのだ。

 そうして家でまた酒を呷り、シャワーを浴びて布団に入る。やがてうとうとと睡魔がやって来た頃、家のブザーが鳴らされる。

 何事だ。誰だ今頃と起き上がって玄関へと向かう。ブザーは一定の間隔で鳴り続け、それが余計に癪に障る。

 スコープを覗けば、そこには同じようにしてこちらを睨む大写しの女性の顔のアップが見えた。ショートカットの、なかなかの美人である。

 俺は一瞬にして悟った。こいつが斜向かいの住人だと。女は無表情のままスコープを睨み付け、ドアを叩くでも、声を荒げるでもなくひたすら一定の間隔でブザーを鳴らし続けるだけ。俺はそこに狂気を感じ、ドアを開ける事はしなかった。

 だがその女性は諦めと言うものが無いらしく、一時間でも二時間でも、同じようにしてブザーを鳴らす。俺は警察を呼ぼうとも考えたが、それで女を刺激して刺し殺されでもしたらたまらないと、その場はひたすら耐える事に決めたのだ。

 やがて、朝日が昇り出す。同時にブザーの音も消えた。俺は眠い目をこすりつつ、今日は早く上がらせてもらおうと考えながら玄関を出る。すると、例のドアを過ぎた辺りでがちゃりと音がして、「あの……すいません」と、背後から声を掛けられたのだ。

 今度は逃げられないと悟った俺は、恐る恐る振り返る。だがそのドアから顔を覗かせている女性は、昨夜ドアの前に立っていた人とは別人で、垢抜けない小太りの女性だったのだ。

「なんでしょうか?」と、うわずった声で聞き返す。するとその中年の女性は、「昨夜、女の子がお宅に訪問なさいませんでしたか?」と言うのである。

 どう返答して良いのか迷っていると、「もう、盛り塩に悪戯されるのはおやめください」と、女性は言う。

「これが無いと、部屋から出て行っちゃいますので」

 何が、とは言わなかったし、俺もまた聞き返す事はしなかった。

 だがやはり管理会社が言うように、その部屋は一人暮らしのようで、その中年女性以外は誰も住んではいなさそうに見えた。

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