#448~449 『不倫の果てに』

 昭和の終わり頃の話だ。

 当時私は、夫がいる身であると言うのに、“健也”と言う名の男性と関係を持っていた。しかも彼にもまた奥さんがおり、いわゆるダブル不倫と言う関係だった。

 逢う日は決まって、雨の日だった。と言うより、雨の日以外はどう足掻いても逢えないのだ。

 理由は、健也も私も雨が降ると出来ない仕事に就いており、お互いに都合が良かったのである。

 朝、雨の音で起きれば、私はいつも通りに仕事へと向かう振りをして、彼の待つ喫茶店へと急ぐ。

 ある雨の朝、私がその喫茶店へと向かえば、何故かその日に限って彼はいなかった。外は土砂降り。私はしばらくその店で待ち続けたが、十時を過ぎた辺りで諦め、冷たくなった珈琲を無理に飲み干し家路へと着いた。

 すっぽかされたなぁと悲しい気持ちでいたのだが、その翌日もまた雨。はやる気持ちを抑えて喫茶店に向かうも、その日もまた健也の姿は無かった。

 それから二日を置いてまた雨の朝。私は半ば諦め気分で喫茶店へと向かったのだが、やはり彼は来ない。

 だが、その日の晩の事だ。健也が私の夢枕へと立ったのだ。

 健也はしきりに私に手を合わせ、謝る仕草を繰り返す。そして私はそんな彼を見て、「あぁ、もうこの人、亡くなったんだな」と察した。

 だが健也は、しきりに何かを私に訴え掛ける。どうやら声は出ないらしい。全て仕草ばかりの訴えだ。

 良くは分からないが、察する所はあった。私は彼に、「あなたを探して欲しいの?」と聞けば、健也は満足そうに頷いて、消えた。

 さてその翌日。探せと言うは容易いが、お互いに連絡先はおろか、“健也”と言う名前以外は、名字も住んでいる場所すらも知らないのだ。

「どうやって探せって言うのよ」と悪態を吐き、唯一の手掛かりであるいつもの待ち合わせの喫茶店へと出向く。生憎、その日はやけに店が繁盛していて、なかなかマスターに話し掛ける切っ掛けが掴めない。苛々としながら珈琲を啜っていると、突然、「相席よろしいでしょうか?」と、一人の男性が向かい側に立ったのだ。

「えぇ、どうぞ」と、不審に思いながらもそう答える。四十代程の、身なりの良いスーツ姿の男性だった。するとその男は、席に着くな否や「早樹(サキ)さんですね?」と、私の名前を呼んで来た。

「そう……ですけど?」答えると男性は、「大貫さんのご依頼で来ました」と言う。

「誰ですか、それ」と聞けば、「あぁ、失礼。健也さんと言えば分かりますかね」と、男性は笑う。

 一瞬、何か面倒な事に巻き込まれた予感を察し、席を立とうとした。すると男性はそれを制止し、「ご心配なく、私は弁護士をしております鈴木と申します」と、男性は名刺を手渡して来た。

「弁護士さんですか?」

「えぇ、そうです。今はまさに、健也さんの弁護人を務めております」

 聞いてびっくりした。亡くなったとばかり思っていた健也はまだ生きているのだ。しかも良く良く聞けばどうやら彼は拘置所にいて、奥さんを殺した容疑者として取り調べを受けているらしい。

「健也さんは無罪ですよ」と、その鈴木と言う男は言う。「ただ、彼が不在の際にその奥さんが自宅で殺され、健也さん自体にはっきりとしたアリバイが無い以上、警察も疑うしかない状況でして」

 状況は分かった。しかもその事件があった日を聞けば、それは私と逢っていた日そのものだった。

「あなたを訪ねて来たのは、健也さんのその日のアリバイを証言して頂きたいからです」

 理由も分かった。同時にそれを承認してしまうと、彼と私の関係性が広く知られ、そして私の夫の耳にもそれが届く危険性は生じると言う。

 一瞬だけ迷いはしたが、健也の為とそれを受ける返事をした。すると鈴木は満面の笑みで、「これで完全に、健也さんは釈放される筈です」と、席を立った。

 そして裁判当日。普通に生活をしていたなら絶対に見る事すら叶わないだろう場所へと通され、私は証人台に立つ。だが、そこには肝心の健也の姿が見当たらない。私はそっと鈴木に、「彼はどこですか?」と聞けば、「あそこにいるでしょう」と、被告人席を指差す。だがそこにいる男性は、どれだけ真剣に見ても、健也とは似ても似つかない別人だったのだ。

 そしてその男性もまた私の存在に気付いたか、とても驚いたような顔でこちらを凝視している。やがて裁判が始まり、私の証言の番となる。そして鈴木が私に向かって、「この方をご存じですか?」と言う問いに、私は素直に、「知りません」とだけ答えた。

 裁判の席は、私の発言のせいか騒然となった。だがそこで嘘を吐いても仕方無い。私はその後の質問にも全て、「この人とは何の関係も無い」と言う主張で通した。

 裁判は終了した。今後、私がそこに呼ばれる事は無いと言う。

 その晩、再び夢枕に健也が立った。健也はとてもバツの悪い笑顔で何度も何度も私に手を合わせては頭を下げていた。

「あなた一体、誰なの?」聞くがやはり答えない。やがて私の目が覚めた。

 あれ以降、裁判の行方がどうなったのかは知らない。ただ、数十年経った今でも、時折健也の夢を見る事がある。相変わらず彼は照れ臭そうな笑顔で私に頭を下げ、そして消えて行くだけ。悲しくなって目が覚めると、それは決まって雨の音が静かに流れる朝の日なのだ。

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