#424~425 『楽屋に閉じ込められた話』
まだ私が若く、小さな芸能事務所にて、“りんどう綾(仮名)”と言う芸名で、駆け出しの演歌歌手をしていた時の事。
ある日、仙台でのホール公演が決まり、私は橘マネージャーと二人で現地に前乗りをしていた。
一夜明け、公演当日。舞台衣装に着替え、メイクをしている最中、前座で出ると言う若手の漫才コンビを連れて橘マネージャーが私の楽屋を訪れた。お互いに挨拶を終え、そろそろ早めの昼食を取ろうかと言う辺りで、楽屋前の廊下を数人分の足音がけたたましく通り過ぎて行った。
「何事でしょうか」と、漫才コンビの片割れがドアを開けて外を覗いた。すると、素っ頓狂な声で、「えっ?」と叫び、もう一人の相方を連れて出て行ってしまう。
残されたのは私と橘さんの二人だけ。お互いに「何事だろう」と顔を見合わせ様子を伺っていると、楽屋の電話がけたたましく鳴り出した。
出たのは橘さんだった。見ると彼は一瞬で血相を変え、「分かりました、すぐに!」と返事をして受話器を置く。そうして彼は私に、「ちょっと急用が出来たので、本番までここで待っていてくれ」と、急いで出て行ってしまった。
残された私はまるで事情も分からず、何度か廊下に顔を出しては外を覗くが、誰の姿も無ければ通りすがる人も無い。
そうしてどれぐらい待ったのだろう。タタタタタッと足音が聞こえたかと思うと、楽屋のドアが「バン!」と音を立てて開き、そこの施設の従業員だろう制服を着た女性が、「りんどう綾さんですね?」と私の名前を呼んで確認をした後、楽屋のドアを内側から施錠した上、ドアノブが回らないよう両手でしっかりと握り締めるのだ。
「どうしたんですか?」と近寄って聞けば、「何でもありません」と、その女性は言う。だがどう見ても何でもない様子ではない。
「橘さんの指示でここに来ました。しばらくは廊下に出ないでください」
そう言われても、そろそろ本番の時間なのである。「橘さんはどこに?」と聞けば、少しだけ躊躇った後、「おそらく亡くなりました」とその女性は言うのだ。
「そんな馬鹿な。ちょっと彼と逢わせてください」と詰め寄ると、「信じてください!」と女性は叫び、そのドアの前から動こうとしない。
「どうか今だけ、私を信じてください。橘さんもあなたの事だけを心配して、私をここに送り出したんですから」
まるで意味が分からない。だが、このドアの向こうでは間違いなく“何か”が起きているのだ。
遠くからサイレンの音が聞こえて来た。同時にけたたましく楽屋のドアが叩かれる。
「綾さん、いる? 僕だよ、橘だ」と、ドアの向こうから橘マネージャーの声が聞こえて来た。
私はすぐに、「おります」と反応しそうになるが、女性が小声で、「お願い信じて」と人差し指を口に当てるのを見て、私は黙った。
「綾さん、もうすぐ本番だから。ちょっと細かい打ち合わせしたいので出てくれる?」
尚も橘さんがドアを開けようとする。だが、私も彼の言動に不信感を抱く。彼は普段、私を「綾さん」とは呼ばない。本名の頭文字で、「くぅちゃん」と呼ぶのが当たり前になっているからだ。
橘さんの声は、尚も私を呼ぶ。その内、声も、ドアを叩くノック音も、やけに激しくヒステリックになって行く。そこに、楽屋の電話が鳴り出した。
出るとそれは事務所の社長で、「なんだか現場は大変な事になってるね」と言うのだ。
「一体何があったんですか。私にはまるで訳が分からないのですが」言うと社長は、「私も手は尽くすから、頑張ってくれ」と言って電話を切ってしまう。
橘さんの楽屋のドアを叩く音は更に激しくなっており、「綾! 出て来い!」等と叫んでいる。やがて、「こじ開けてやるからな」と、どこかへと去って行き、女性と二人で溜め息を吐きながら安堵していた時だ。
ふと、楽屋の照明が一遍に全て消えた。全く何も見えない真っ暗闇になってしまったのだ。
私達は同時に悲鳴を上げ、私は床を這いながらドアの前まで行き、女性の腰辺りにしがみつく。その後、どれぐらいそうしていたのだろうか。また何人かが廊下を走り抜けて行く足音がして、やがて照明が戻った。
次に楽屋を訪れたのは、そこの施設の館長さんだった。ドアを押さえていた女性従業員は、ドアを開けるなりその館長さんに抱きつき、大声を上げて泣き始めた。館長さんはその子をなだめながら、「りんどうさん、とんでもないご迷惑をお掛けしました」と謝罪した上で、その日の公演は中止になった旨を伝えられた。
帰りの電車は一人きりだった。事務所へと戻れば社長は行方不明で、既に倒産話が出ていた。
その後私は別の芸能事務所へと移籍したが、結局は泣かず飛ばずですぐに引退となった。
橘さんと社長、そして前座の若手芸人二人のその後はまるで分からない。例の仙台の施設も、既に廃業となっているらしい。
結局私は、あの時に起きたであろう出来事をまるで知らされていないのである。
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