#423 『歯ぎしり』

 ギギッ――ギギッ――と、音が聞こえる。

 そこはマンションの六階の自宅。私がトイレで用を足していると、いつも必ず聞こえて来る謎の音だ。

 最初の内は全く気にならなかった。なにしろ、引っ越す前まで両親と一緒に住んでいたマンションなど、上と両横の生活音が絶えず聞こえて来るような場所で、それが当たり前となって育って来たからだ。だが――

 用を足し、便座の蓋を閉めてドアを開ける。そうして身体半分が外へと出た瞬間だ。

 ギッ――と、そこで音が止んだ。

「どう言う事?」思ってもう一度トイレの中に入り、蓋の閉まった便座の上に腰掛けてみる。

 するとそれはまた始まった。ギギッ――ギギッ――と、どこからか聞こえて来るのである。

 それ以降、私は注意深くその音に耳を傾けるようにした。やはり音は、私がトイレに入っている間だけ鳴っている様子で、便座が重みで軋んでいるのだろうか、それともトイレの照明のせいか、換気扇かと、色々と考えてみたのだが、どれも違うような気がする。

 私の部屋の隣は、エレベーターである。しかもトイレの場所は完全にエレベーターの真横に位置しており、隣人の生活音とは考え難い。

 ある時ふと、「あぁ、この音、真後ろからだ」と私は気付いた。しかもそれは座っている私の頭よりも若干高い位置である。

 だが、後ろを振り返ってみても何も無い。ただ、ぬいぐるみとトイレットペーパーの替えを置いてある棚がそこにあるだけ。

 でも、確かにここから聞こえる。思って壁に触れてみる。だが、まさに音が聞こえているであろう箇所の壁が、予想もしなかった感触でふわりと、たわむのである。

 瞬時に察した。この貼られた壁紙の向こうに空間があると。私は急いでその棚を外し、カッターナイフを使ってその壁紙を剥がしに掛かった。すると――

 私はトイレの床へとへたり込む。三十センチ四方にくり抜かれた壁の中に、白髪の老人の顔があった。その老人はすっぽりと顔だけを穴の中に突っ込み、焦点の合わない目付きのまま、ギギッ――ギギッ――と、歯ぎしりを繰り返しているのである。

 私はすぐに管理人を呼んだ。何度説明しても、「そんな馬鹿な」しか言わないので、見に来てくれとトイレまで連れて行ったのだ。だが――

「何もありませんね」と、管理人は言う。

 確かに、何も無い。壁紙の剥がされた剥き出しの壁には、継ぎ目も、怪しい空間に繋がるであろう段差も無い。ただのっぺりとした平らな壁があるだけである。

 管理人は私に対し言葉では言わないものの、「あなたの目の方がおかしいのでは?」と、態度で訴え掛けていた。

 後日、私は花柄の壁紙を買って来て、自力で貼り付ける作業を行った。

 素人作業ながらも、綺麗には貼り付けられたと思う。ようやく終わったと思った次の瞬間、またしてもギギッ――ギギッ――と聞こえて来る。まさかと思って上から触れれば、例の老人の顔のあった場所の壁紙だけが、ふわりとたわむ。私は慌てて、貼ったばかりの壁紙の角に爪を立てた。

 ――あれから、歯ぎしりの音は聞こえない。もちろん、あのまま壁は何も貼られずに剥き出しのままだ。

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