#419 『押される』
いつの頃からだろうか。突然背後から、左の肘を押されるようになったのである。
それは決まって、左肘を曲げている時に起こる。例えば電車の中、右手で吊り革に掴まり左手で本を持ったとする。当然、本を持つのだから左肘は曲がる。すると、押されるのだ。
ドンと、結構な勢いで背後側から衝撃が来る。決まって僕は、その左手に持っている物を取り落としてしまう。
この場合、物が本なので大事には至らないのだが、社食でラーメンなんかを頼んだ場合にはかなり悲惨な事になるのだ。
自然、左手は滅多な事では使わなくなる。今ではもう慣れたものだが、この現象が起こるようになってしばらくは、なかなかに難儀をしたものだった。
ある時、とある伝手で一人の女性と知り合う事となった。何故かその女性とはやけに相性が良いらしく、そこから結婚に至るまでは半年も掛からなかった。
やがて、僕らの間に子供が出来た。女の子だ。
名前は、亜紀と名付けた。亜紀はすくすくと育ち、五歳になったある日、ちょっとした出来事が起こった。
それは駅のホームでの事。亜紀は妻と手を繋いで歩いていたのだが、ふと僕の方へと振り向き、空いているもう一つの手を差し出したのだ。要するに、手を繋いで欲しいと言う事なのだろう。
但し、若干の抵抗はあった。亜紀の差し出した手は右手だった。当然その手を掴もうとしたならば、それは僕の左手と言う事になる。
僕は手を伸ばし――やめた。代わりに、「ママと交代」と言いながら、亜紀の左手を、右手で握った。きっと亜紀は両手で僕達の手を握りたかったのだと思う。それを叶えてやれない不甲斐なさで悔しく思っていると、突然背後から左の肘を思いっきり押された。
僕は駅のホームの上で体勢を崩し、大きくよろけた。咄嗟に背後を見れば、それは杖を突いた老婦人で、どうやら躓いたか何かで僕にぶつかったらしいのだ。
「ごめんなさい」と、老婦人は謝るのだが、もしも僕が左手で亜紀の手を握っていたならば、高確率で亜紀を線路の上へと突き落としていてもおかしくはない程の勢いだったのである。
瞬間、僕は察した。ある時から左肘を押されるようになったのは、今日、この時のための忠告だったのではないかと。
それ以降もやはり左肘を押される事はあったのだが、その一件以来、多少は回数が減ったように思えた。
やがて月日は経ち、亜紀も高校生となった。
ある日の事、僕は何かの弾みで亜紀にその一連の出来事を話してしまった。
「――だからね、きっと君を守るために神様が教えてくれていたんだと思うんだ」と、いかにもな美談で話を終えると、亜紀はじっと僕の左肘の辺りを見つめながら、「パパ、それは違うと思う」と、言うのである。
「だってパパが左肘を曲げると、ちょうどそれ、“目の高さ”ぐらいなんだもん」
「え、何が?」と僕は聞き返したが、結局亜紀は、それ以上は何も答えてくれなかった。
やはり左肘は、今も押されるのである。
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