#417~418 『ふれる時計・前編』
祖父が亡くなった。
元より偏屈な人で、連れ合いである祖母を早くに亡くしてからは、生家から出て行き、一人暮らしをしていたぐらいであった。
葬儀は僕と実家で暮らす親父とでなんとか無事に済ませた。残るは祖父の住んでいた家の後始末だけ。
母もウチの嫁も、「売り払っちゃって」と簡単に言う。だが僕と親父の方はそう安易には決める事が出来ない理由があった。
「この家は、未来永劫守り続けろ」それが祖父の残した唯一の遺言で、言葉の理由までもは教えてはもらえていなかった。
納骨を済ませた後、親父と二人で祖父の家へと出向いた。とりあえず家中を見回ってから、どうするかを決めようと言う話で落ち着いた。
一階部分は何も問題は無かった。問題はおそらく二階である。
僕も親父も、その家の二階には数える程度しか入った記憶が無い。二階へと登ろうとすると、いつも祖父がそれを制止するからだ。特に親父はまだ若い時分、一人暮らしを始めた祖父の家へと遊びに行き、勝手に二階の部屋へと入ってこっぴどく怒られた事があるのだと言う。
二階は、静寂に満ちていた。階段を登り切った辺りから、空気自体の密度が変わったような気がした。
廊下はさほど長くはないものの、東西に分れて伸びている。親父が西側へと向かうのを見届け、僕は東の方へと向かった。
確実に、“何かがある”と言う予感があった。ただそれが何かは分からないし、もどかしいぐらいに曖昧な予感でしか無い。
僕はとあるドアの前で立ち止まる。僕がこの二階で唯一、覗いた事のある部屋だ。
ひたすら何も無い部屋だったと記憶している。部屋の中央に敷かれた小さなカーペット。そして壁に掛かった大きな振り子時計。それが全てだった。
幼かった僕はその時計の細工の美しさに惹かれて部屋へと入ろうとし、祖父に強く止められた。それだけがこの二階の部屋の記憶であった。
意を決し、ドアを開けてみる。部屋は僕の記憶したままの姿でそこにあった。
そっとドアを閉め、かつては祖父がそうしていたであろう想像のまま、カーペットの上にひざまづく。
カン――カン――カン――と、未だ停まる気配も無いまま、時計の振り子が揺れている。
僕はその優雅さと美しさに見蕩れたまま、呆然とそれを眺め続けていた。
やがて世界が揺れるような感覚に陥り、酒に酩酊した時のようなトランス状態が訪れた。
あぁ、なんて心地良いのだろうと思っていると、突然けたたましいドアの音と共に、「祐司!」と、親父の声が聞こえた。
部屋のドアの前に、親父が怖い形相で立っている。「どうした――」と、言い切る前に親父は僕の腕を掴み、「帰ろう」と言い出すのだ。
「何があったんだよ」車に乗り込み、僕はエンジンを掛けながら聞く。すると親父は、「とんでもなくヤバい部屋があった」と言う。
だが、それがどんな部屋なのかは聞いても教えてくれない。ただ親父はかなり切迫した表情のまま、色んな所へと電話しながら家の解体の予約を取り付けていた。
親父を実家の前で降ろし、僕は僕で、家族の待つ自分の自宅へと戻る。家に着いて間もなく、明日には手続きを終え、三日後には解体を始めると親父から連絡があった。
深夜、ふと目が覚める。隣では妻と幼い息子が寝息を立てている。
それはかなり衝動的なものだった。僕はすぐに私服へと着替え、車を飛ばして祖父の家へと向かう。親父の言っていた“とんでもなくヤバい部屋”の事は気になったが、それよりも僕には時計の魅力の方が断然上で、あれごと家を解体される話をされた以上いてもたってもいられなくなってしまったのだ。
日中に急いで家を出て来たせいか、幸い祖父の家の玄関の扉は施錠されていなかった。僕は極力、他の部屋を気にしないよう時計の部屋を目指し、無事にそれを壁から取り外す。
時計は想像していたよりずっと軽かった。しかしなかなかにして持ちにくく、車まで運び入れるのにはかなりの苦労を強いられた。
時計は自宅の二階にある物置の中に隠した。壁に立て掛け、これで安心して眠れるとは思ったのだが、それを眺めている内に例のトランス状態がやって来て、いつの間にか朝を迎えていた。
日中、湧き出る生あくびを噛み殺しながら仕事をしていると、妻から電話が入る。内容は、「物置にある時計は何?」と言うもの。早くも見付かったかと思いながら、「気にするな」と通話を切った。
夜、家へと帰ると何故か照明の類が一切点いていない。どうしたのだろうか。二人で外食にでも出掛けたのだろうかと思いつつ家へと入る。だが、二人はいた。真っ暗な物置の中、妻と息子は時計の振り子と同じタイミングで、身体を前後に揺らし続けていたのだ。
大きく仰け反り、そして大きく前へとつんのめる。ヘッドバンキングよろしく、延々と二人でそんな行為を続けている。しかもその表情は恍惚そのもので、僕は慌てて親父へと連絡すれば、その第一声は、「このバカヤロウ!」だった。
なんとか妻と息子を寝かしつけ、親父と僕は再び時計を車に乗せて祖父の家へと向かう。
ようやく僕にも理解が出来た。親父が言った“とんでもなくヤバい部屋”は、まさにあの時計の部屋そのものである事を。
「俺が昔、二階の部屋に忍び込んで、爺さんに叱られた話はしたな?」と、親父は言う。
それがその時計の部屋であって、親父は一体どうして怒られたのかがずっと疑問だったのだが、昨日の俺の姿を見てようやくその異常さを理解したのだと言う。
俺はあの部屋の中、時計の振り子の動きに合わせ、左右に大きく身体を揺らしていたらしい。
時計は元の位置に戻し、今度はしっかりとドアに施錠をして家へと帰った。
予定通り三日後には家の解体が始まり、そして祖父の家は四日目には完全に更地となっていた。
僕にとってはやはりあの時計に未練があり、どうにかして取っておけないものかと思案はあったが、こうして何もかも無くなってようやく、その想いも消え失せたのだ。
それから五年が経った。ある日、母から連絡が入った。親父の突然の訃報だった。
急いで実家へと向かえば、家から出て来た母が、「義父さんと同じ死に方しちゃった」と泣きわめく。そう言えば数年前、祖父の遺体を見付けたのも母だったと思い出す。
親父は自室でひっそりと亡くなっていた。畳の上で不自然に横たわり、とても穏やかな表情で冷たくなっていた。
ふと、気付いた。向こうの暗がりから聞こえる、カン――カン――カン――と言う規則正しい物音を。
果たしてそれはなんの音だったか。僕は親父の亡骸を見つめたまま、顔を上げられずにいた。
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