#416 『喫煙のススメ』

 赴任二日目にして、極度のストレスから、長い間やめていた煙草に手を出してしまった。

 O県支店の店長と言う肩書きでやって来たはいいが、当然の事ながら長年そこで務めていた方々には面白い話ではないらしく、支店の全員の連携プレイな嫌がらせで、大概参ってしまったのである。

 深夜の零時。社宅であてがわれたマンションへと帰る。コンビニで買った晩飯代わりのビールと、学生時代に吸っていた銘柄の煙草。帰宅するなりそれだけを持ってベランダに出る。

 久し振りに吸う煙草はキツい。ふぅと息を吐けば、白い煙が四階から見える夜景に溶け出し、消えて行く。

 ふと、気付く。通りを挟んだ向かい側のマンションの、ほぼ同じぐらいの位置に、同じように煙草を吹かしているであろう人影が見えたのだ。

 室内からはルームライトのようなほの暗い程度の灯りが漏れて来ていて、その人影をぼおっとシルエットだけで浮かび上がらせている。なのでその人影は輪郭しか分からないのだが、なんとなく女性だと思った。

 僕はしばらくその女性と向かい合わせのまま煙草を吹かしていた。

 少しだけ、良い気分だった。こんな真夜中に二人だけで時間を共有している。そんな感覚があった。見れば向こうのマンションも、住民は既に全員寝ているのか、その女性のいる部屋を除けばどこの窓も真っ暗なのである。

 以降、帰宅をしたらまずベランダで煙草を吸う。それが日課になってしまっていた。

 向かいの女性はいつもそこにいた。ただそれだけで、僕は満足だった。

 話し掛けられる距離ではないし、顔が見える明るさでもない。ただ深夜にこうして出逢える、それだけがつまらない一日に華を与えてくれていた。

 ある晩、もうそろそろ部屋に引っ込もうかと言う時分、ふと向こう側で女性が手を挙げたのが見えた。もしかして――と、僕もまた手を挙げる。するとそれは向こうにも見えているらしく、挙げた手を振って来たのだ。

 次の晩からは、「ただいま」と、「おやすみ」の時は、必ずお互いに手を振り合っていた。

 家に帰れば、彼女が待っていてくれる。ただそれだけで活気が生まれた。自然、それが仕事にも反映されたか、次第に支店の方達とも打ち解ける事が出来、仕事もスムースになって行ったのだ。

 赴任三ヶ月目。ようやく後任が決まったからと、本社へと戻る辞令が下された。

 最終日、仕事は午前中で引き上げて、マンションへと戻る。荷物は元より少なかったし、大体のものは宅配便で送っているので、持って出るものは多くない。

 部屋のテーブルには、勢いで買ってしまった小さな花束があった。

 渡すべきではないだろうとも思っていたが、彼女の存在に助けられた三ヶ月でもあるのだ。せめてどうにかして、今日でここを引き払う旨ぐらいは伝えたい。思いながら、そっとベランダへと出る。

 愕然とした。日中に見るそのマンションは初めてで、その各部屋の窓にカーテンの一つも張っていないのを見る限り、そこが機能している建造物ではない事を教えてくれていた。

 階下へと降り、そのマンションの前に立つ。エントランスにはバリケードが張られ、再開発予定の日付は、既に数年前のものだった。

 花束は、そこに置いた。そして駅へと向かう方向へと歩き出せば、どこからか「おーい」と言う女性の声が聞こえた。

 まさかと思い、上を見上げる。すると遙か上階から身を乗り出して手を振る人の姿が、午後の日差しでシルエットとなりながら浮かび上がっていた。

 僕は荷物を置いて、両手で手を振る。「またいつか!」と、無理な約束をして彼女と別れた。

 そんな経験などした事もないのに、何故か、同棲していた彼女と別れた時のような寂しさがあった。

 それから半年後、またしてもO支店への赴任を任された。後任が支店の人々と合わず、ノイローゼで入院したと言うのだ。

「今度は長くなると思う」と言われ、僕は呑気に「大丈夫です」と答えた。

 そう言えばあれ以来、煙草は吸っていない。意味はないけどまた吸うかと、僕は帰り掛けにコンビニへと向かった。

 喫煙も、そんなに悪くはないと思う。

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