#408 『鬼火』
まだ若かった時分、無銭旅行をしていた事があった。
山梨から信州へと向かい、とある山中で夜を過ごす事になった。運良く神社を見付け、その中で夜露を避ける事にした。
さて、簡素な食事を終えて寝袋に潜り込もうとした時、部屋の隅がぼぅっと明るくなった。見ればそれは鬼火のようで、赤々しい炎がぼんやりと空中で静かに燃えている。
何故か僕は、さして驚きもしなかった。むしろこの時代に、どんな話にも登らなくなった鬼火を見られた事を、少なからず感動をしていたのだ。
僕は寝袋を出て鬼火に近付く。すると鬼火はそれを待っていたかのように、ふわりと床へと落ちて広がり、そして消えてしまった。
但しその消える一瞬に、炎はその床の一画を赤く染め、何かを示した。どうやらそこの床だけ嵌め込み式の扉であるらしく、炎がそれを浮かび上がらせていたのだ。
僕はランタンを持ち出し、その床板を外しに掛かる。
扉はすぐに開いた。そして中を覗き込むと同時に、その床下からぼうっと炎の灯りが覗いた。
――そこに、“人”がいた。向こうもまた手に灯りを持ち、こちらを鏡映しのようにして覗き込んでいるのである。
「えっ、人間?」と男性の声、何故か僕にはその言葉が面白く聞こえて、「あんたこそ人間かよ」と聞き返した。
一体空間がどうなっているのか。向こう側は天地が逆のようで、覗いているこっちが、向こう側に落っこちて行ってしまいそうな感覚に陥る。
そして僕はそんな体勢のまま、その向こう側の男と話し込んだ。男は九州にある神社にいるらしく、場所が違うだけでこちら側とほぼ同じ状況であると言う。
「こっち側に来いよ」と男は言う。僕は少しだけ躊躇したが、「やめとくよ」と、扉を閉じた。
その翌朝、向こうの世界はどうなったのかと思い床板を探したが、どこにもそれらしき場所は見当たらなかった。
それから数年後、僕は九州を旅する機会に恵まれた。
例の男が言っていた神社らしきものも見付けたが、やはりそこの神社にも、それらしき床板は存在していなかった。
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