#405 『開けてくれないか?』
私が毎日、行き帰りに歩く道の途中に、少々勾配の厳しい坂がある。
その坂の真ん中辺りで、いつも声が聞こえる。男女三人ほどの楽しそうな談笑だ。
路肩のガードレールの先は民家なのだが、どうやらそこの一階部分の窓が開いていて、そこから声が聞こえるようなのである。
ようなのであると言う曖昧な言い方になってしまうのは、その一階部分が道路よりも下にあり、まるで見えないからなのだ。だがちょっとだけ身を乗り出して覗けばかろうじて見える。落ち込んだ崖のような壁面から人が一人通れる程度の向こう側に、開いた窓とドアがある。但し常に日陰でその内側はまるで分からない。
ある晩、かなり酷い口論となって彼氏と別れる事となった。その勢いで飲んだ酒で酩酊し、私はかなり足取りが不確かなままいつものその坂を登っていた。
「よう、ねぇちゃん。危ねぇぞ」と、よろけてガードレールに掴まった瞬間、そんな声が聞こえた。いつもの民家の一階の窓からだった。
最初は私の事だとは思わず周囲を見回したのだが、「あんたの事だよ」と笑われ、ようやく自分に向けての言葉だと理解した。
「降りて来て一緒に飲まねぇ?」と言われた。同時に若い女性の声で、「おいでよ、楽しいから」と誘われる。きっと他にも誰かいるのだろう、「おいで」とか、「話しようよ」と聞こえて来る。
「うん、行く」言った途端、賑やかな笑い声。なんだか私は少しだけ嬉しくなって、今来た坂を少し下って、その民家の開きっぱなしの門をくぐった。
そして石垣に沿ってその家のドアの方へと歩いて行けば、「あんた何してんの?」と、背後から声を掛けられた。
振り返ればそこには中年の女性。どうやらそこの敷地の住人のようで、「どこ行こうとしてるのよ」と更に問い詰められる。
私はしどろもどろになりながら、ここの中の方に誘われたと話せば、その女性はとても困惑した顔になり、「そこの家、良く見てみて」と言うのだ。
そして私はよろけて石垣に掴まる。再びドアの方へと振り返れば、ドアと言わず窓全てに注連縄(しめなわ)が渡され、毛筆で経文らしきものが直に書かれていた。
窓は、どこも開いてはいなかったのだ。
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