#398 『一条戻橋』
東京の下町で、呉服問屋を営んでいる。
元々私は貧乏な家の出身で、半ば無理矢理に反物屋へと丁稚奉公に出された人間である。だがそのおかげで、長い下積みから番頭時代を経て、店を構えるまでに至った訳だ。
そして人よりも少々遅くはあったが、良縁にも恵まれ、今では内孫までもがいる。
私は長い間仕事漬けで暮らして来たせいかとても無趣味で、一日の中での唯一の娯楽はその夜に書く日記ばかり。元は丁稚奉公時代、その日に習った事を書き留めておくためのものだったのだが、いつの間にかそれは習慣となり、私の日課となっていたのだ。
ある晩、一日の仕事の全てを終えて自室へと引き上げ、いつも通りに引き出しからノートを取り出し机の上で広げた。最新の頁をめくると、そこには書き殴ったような大きな文字で、“オオウチサトルです”とあるのだ。
それを見た瞬間、滅多に怒る事のない私は珍しく頭に血が上り、「誰がやったんだ」と家族全員に食って掛かった。だが、妻と娘は「知らない」と首を振り、むしろ私が長年日記を付けていたと言う事さえ初めて知ったと言う。
そうなるともう、怪しい人物は誰もいない。娘の夫は出張で一週間前から帰っていない。そして二歳になる孫がそんな事をする筈も無い。妻と娘が嘘を吐いているとも考えにくい。怪しい人物が家に上がり込んだのかとも思ったのだが、留守にする事もなく一日中誰かが家の中にいるのだから、それもまた有り得ない話である。
仕方無く私は、“全て無かった事”にした。殴り書きされた頁は丁寧に切り取り、丸めてゴミ箱へと捨てる。そして私はそのまま、この一件を忘れた。
ある時、京都のとある呉服屋さんから反物を見せて欲しいと連絡があった。なんでもそこの息子が店を構えたらしく、関東の反物も並べたいと言う。
その仕事は私自身で動いた。バンに積み込めるだけの反物を詰め込んで、単身、京都へと向かった。
努力の甲斐あり、持って行った反物のほとんどは買い取ってもらえた。それで少しだけ気が楽になったせいか、私はその晩、宿を取って一泊する事にしたのだ。
宿で早めの夕食をとった後、さぁどうしようかと悩んでいると、女将さんが「散歩でもしなさったら?」と勧めて来る。夜の京都見物も粋なものですよと言われ、私はその気になって外へと出た。
確かに夜の京の街は風情があって美しい。酒の酔いに任せてあてどもなくぶらぶらと歩いていると、ふいに小さな橋のたもとへと出た。橋には“一条戻橋(いちじょうもどりばし)”とある。
さすがに無趣味な私でも知っている。かの有名な橋の名前だ。なんでも死者がこの橋を渡って現世へと帰って来ると言う、そんな謂れのある橋である。
私は面白半分でその橋を渡り始めた。すると向こう岸からは提灯をぶら下げた男性が一人、こちらへと向かって歩いて来る。さすがは京都だなと言わんばかりな、浴衣姿の若い男性である。
その男性とは、はからずも橋の中央辺りで道の譲り合いになってしまった。私が右へと避けると向こうもまた同じようにして右に避けて来る。そうしてその男性が眼前へと来たその瞬間、「お久しぶりです。オオウチサトルです」と、話し掛けて来たのだ。
そして事もあろうかその男性は私の手を取り、そっと何かを握らせて来た。そうして今度は何も言わずに私の横を通り過ぎて行く。
なんだろうと手を開く。そこにはくしゃくしゃに丸められた紙がある。
広げてみて驚いた。記憶にまだ古くない、“オオウチサトルです”と書かれた、あの日記の切れ端だ。
振り返るが、もうそこには誰もいない。
軽やかな風が木々の葉を揺らす、宵闇落ちる京の夜の出来事だった。
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