#396 『常夜灯』
夜の十時を過ぎた頃だった。目の前を、狐の面をかぶった浴衣姿の親子連れが横切って行ったのだ。
季節は夏。どこかで夏祭りがあったとしても不思議ではない。だがここは密集したオフィス街のど真ん中。その中を、華やかな浴衣を着た母親と幼い娘が歩いている。僕はそこに疑問を感じた。
この近辺に民家などあるものだろうか。いやそれよりも、この周辺で夏祭りがひらかれる事の方が不思議である。思いながらその親子の向かう先を目で追えば、道路向かいに明かりの灯った石灯籠の立ち並ぶ、赤い鳥居が見えたのだ。
あぁ、こんな場所に立派な神社があるじゃないか。連日の残業と、またしても晩飯を食い損ねた空腹感からか、僕の足はその親子を追うようにしてその鳥居の中へと吸い込まれて行った。
長い石段を登ると、これまた狐の面をかぶった巫女さんに、なみなみと注がれた御神酒をいただく。少しだけ得をした気がしつつ境内へと入って行くと、神社周りに沢山の屋台が並び、人が大勢行き交い、神楽殿では舞いとお囃子を披露している。
僕はそれを眺めながら、ぼぅっとしたまま近くの椅子に腰掛ける。空腹の酔いのせいか、見るもの全てが極彩色の煌びやかなものに見えてしまうのだ。
風が、通り抜ける。あぁ、なんて心地よいのだろう。考えると、休む暇さえ与えられないままの忙しい日々に、こんなゆっくりと過ごす時間など想像もしていなかった事に気付く。
もう会社、辞めちゃいたいなぁ……と、ぼんやり考えていた時だった。背後の耳元で、「ポン」と一つ、和太鼓の音が聞こえた。同時にお囃子も屋台も行き交う人々も全てが消え失せ、僕は路上の辻にある小さな祠の前に座り込んでいたのだ。
見ればそこは出勤時にいつも通る道で、その辻に祠があると言う事すら気付いてはいなかった。僕はすぐに近くのコンビニで日本酒のワンカップを購入し、それを祠に置いて帰った。
もしかしたらあれは、仕事仕事で余裕を失っていた僕への忠告ではなかったのだろうか。そんな戒めでその出来事を納得させようとしていた矢先だった。
まだ陽の高い、空気がぐらぐらと煮えたぎっているかのような暑い日の午後の事。外回りから帰って来た僕の目の前を、狐の面をかぶった浴衣姿の親子連れが横切って行ったのだ。
それを目で追う。すると僕より前に、その親子の後を付けるくたびれた中年サラリーマンの姿があった。
例の祠の場所には、遠く石灯籠が立ち並ぶ赤い鳥居があった。
スーツの中年男性は、その鳥居の中へと吸い込まれて行き、やがて見えなくなった。
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