#394 『黒く焦げた腕の話』
ある日突然、我が家に“兄”がやって来た。
弟か妹が出来たと言うならば話は分かるが、自分よりも年上の者が家へと来ると言う事については、さすがに幼い僕でも変な事だと勘付いた。
兄は色黒で背の高い、僕よりも十歳も年上の人だった。両親は僕に事の説明はしてくれなかったのだが、一緒に同居していた叔母だけはその兄の存在がとても腹立たしいらしく、いつも「いけ好かん」とか、「生意気なガキだ」と、罵ってばかりだった。
兄はそれまで、どこか遠い所に住んでいたらしい。こっちへと越して来て地元の高校へと通い始めたのだが、いつも学校が終わるや否や家へと帰って来ては、私服でどこかへと出掛けて行った。
時折、僕の同級生の間でもその兄の事が話題に持ち上がった。どこそこの山の中に入って行ったとか、とある廃屋の屋敷でうろつき回っているのを見たとか、どれも宜しくない噂ばかりであった。
僕は特に兄を嫌っていた訳ではないのだが、あまり顔を合わせる機会も無く、家では叔母がいつも目を光らせていたので、余計に話し掛ける暇が無かったのだ。
だがある日の事、学校から帰っている途中で待ち伏せしていた兄に呼び止められ、「一緒に来て欲しい所がある」と言われたのだ。
付いて行けばそれは自宅の背後に広がる山の方角で、僕はランドセルを背負ったまま、必死で兄の背中を追って行った。
やがて一軒のぼろぼろに朽ちた廃屋へと辿り着く。そしてその家の前で立ち止まった兄は、僕の方へと向き直り、「俺がお前を祓ってやるからな」と言うのだ。
当時の僕はまだ“祓う”と言う意味も分からず、言いなりのまま兄の後を付いて行く。そして兄はその廃屋のとある部屋の中にある、箪笥の前へと僕をいざなう。
「ここを開けろ」と、兄が言う。僕は言われた通りに観音開きの戸を開けると、その箪笥の中に広がる暗闇の中から黒く焼け焦げたような腕が二本出て来て、僕を捕まえようとしたのだ。
僕は悲鳴をあげて飛び退る。するとそんな僕を逃がさんとばかりに兄が背後から背中を押し、そしてとうとう僕はその黒い腕に捕まった。一体どれぐらいそうしていたのだろう、二本の黒い腕は僕の頭や背中を撫で回し、痛いほどの力で強く叩く。僕は怖さと痛みで悲鳴を上げて泣き叫んだのだが、兄は助けてくれるどころか、僕が逃げ出さないように背後からしっかりと両腕を掴んでひねりあげているのだ。
ようやくその行為が終わった後、僕は兄など待たずに転げるように家へと駆け戻る。そして事の次第を全て両親に話すと、さすがに顔色を変えて怒り出す。特に叔母などは顔をどす黒くして、わなわなと震え始めるではないか。
その晩、兄は夜更けまで怒られ続けた。以降、兄の自室は母屋から少し離れた小屋の中となり、高校を卒業して東京へと出て行くまでずっとそこで過ごしていた。
兄が家を出る直前、僕に小さな紙片を手渡した。何か困った事があったら連絡しろと言うのだ。僕はもう兄と会う事は無いだろうと思っていたのだが、僕が高校を卒業して地元の会社に就職すると、両親が相次いで他界した。何故か僕はそのまま家で生活する事をせず、すぐに家を畳んで仕事も辞めると、貯金だけ持って単身東京へと出て行ったのだ。
久し振りに会う兄は、東京で祓い師を始めていた。僕はもう既に過去のわだかまりなど微塵も無く、積もる話もそこそこに、あの廃屋での一件は何事なのか聞いてみた。すると兄曰く、「俺はあの腕に呼ばれて、お前の家に養子に来たんだ」と、とんでもない事を言い出す。
やはりと言うか、兄と僕は血縁関係に無い間柄だったらしい。
「ちゃんと祓えただろう?」と兄に言われるが、まるで意味が分からない。ただその日以来、家から叔母の姿が消えた事だけは覚えている。
「お前の両親は、ちょっと手遅れだった」と兄は言い、椅子に掛けていたジャケットを羽織る。するとその裾から二本の黒い腕がぶらんと垂れ下がるのが見えた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます