#376 『忘却』

 ある時から、とても瞬間的な記憶喪失を体験する事になった。

 それは時間にして僅か十秒から二十秒程の事らしい。だが、私にとっては完全に記憶を失っている空白の時間なのだ。

 それはいつも、目の前に立つ男性の姿から始まる。男性はとても神出鬼没で、家だろうが会社だろうが街中だろうが、突然に現れて私を驚かす。

 男は黒いスーツで、私に背を向けて立っている。いつもの事だがそれはほんの一瞬の事だ。男の姿を見たと言うその次の瞬間には、記憶を失っているのだ。

 だが一つだけ、微かに覚えている事がある。男は必ず私の方へと振り向く。振り向いた瞬間に私は全てを忘れる。気が付けば男の姿は無く、僅か十数秒の時間が過ぎているのである。

 ある時、友人の祐美恵にその事を話した。祐美恵はその事を案じてくれたのか、すぐにその場で検索を始める。短期記憶障害とか、一過性全健忘などと言う単語が出て来るが、どれもなんとなく私の症状に当てはまると言うものが無いような気がした。

 祐美恵は気にするなと言い、私を食事に誘う。そうして二人で繁華街を歩いていた時の事だ。ふと私達の前を歩く男性の姿に、既視感を覚えたのだ。

「あの人、私の記憶喪失の時に出て来る人に似ている」と、祐美恵に話した瞬間だ。男が振り向き、私の方を向く。

 男は全く知らない人なのだが、やけに人懐っこい笑顔で手を挙げる。どうやらそれは祐美恵の知り合いらしく、手を挙げたのは私にではなかったのだ。

「なんか祐美恵の声が聞こえたんで、思わず振り返ったよ」と、その男性は言う。そして私は、「謙一さんって言うの」と、その男性を私に紹介してくれた。

 どうやら祐美恵と謙一は付き合っているらしく、既に結婚の約束もあると言う。祐美恵は少し照れながらも、式には来て欲しいと私に告げたのだ。

 さて、その晩から例の記憶喪失は無くなった。だが一体、どうして祐美恵の彼氏が私の前に現れて、記憶を奪い去って行くのかが理解出来ない。

 やがて式の日がやって来て、私は友人代表でスピーチまで頼まれたのだ。

 式場の控え室で、白いドレスに着替えた祐美恵が、式のリハーサルで部屋を出て行く。そして私もそれに付き添った。そして謙一の控え室のドアを開けた瞬間、何故か私はとても嫌な予感がしたのだ。

 白いタキシードを着た謙一が、後ろ向きに立っている。そしてそれが私の記憶と重なる。

 謙一が振り向き、同時に祐美恵が倒れ込む。それからが大変だった。悲鳴に、野次に、救急車のサイレン。式は急遽取りやめとなり、祐美恵は病院に緊急搬送された。

 祐美恵は、くも膜下出血と診断された。かろうじて助かりはしたが、身体の不自由さは残ったままで、そして彼女が過ごして来た二十数年間もの記憶をほぼ全て失う事となった。

 祐美恵は謙一の記憶をも失ったが、私の記憶だけはあるらしい。時折、彼女の家を訪ねると、祐美恵は決まって私にこう言う。

「時々、私の記憶の中で、知らない男性が後ろ向きで立っている姿が浮かび上がるの」

 謙一はその後、他の女性と結婚を果たしたと聞く。祐美恵には未だ、何も言えずにいる。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る