#371 『先住者の荷物・壱 自動書記されるイーゼル看板』

 前に住んでいた人が残して行った荷物にまつわる怪異について、何話か書かせていただこうと思う。その一夜目。

 ――かなりの倍率の公団住宅に当選した。現在住んでいる所に比べたら、倍以上の広さになるのだ。嬉しくない訳が無い。

 引っ越し当日、荷物を積み込んだトラックを追い掛け、夫が車を運転する。そして新居となる団地へと到着したのだが、既に運び込まれた荷物の中に、妙なものが一つあったのだ。

 それは喫茶店やレストランなどに良くある、店頭に置かれる手書きの看板である。イーゼルに乗っかり、チョーク等でその日のメニューなどを書くタイプのものだ。

「これは誰の荷物?」と聞くが、夫も義母も「知らない」と言う。次に引っ越し業者に聞くと、「荷物を運ぶ前からここにあった」と言うのだ。

 だが、先日の確認の為の内見の際には何も無かった筈。後で管理人に聞いて始末しようと思っていると、意外にも息子の清彦がそれを気に入ってしまい、自分の荷物などそっちのけで看板にお絵かきを始めてしまったのだ。

 あらかた荷物も片付いて、向かいと上下の部屋に挨拶に回った後、家へと戻れば清彦のお絵かきは完成していて、某アニメキャラクターを描いた力作がそこにあった。

「チョークはどうしたの?」と聞けば、そのイーゼルタイプの看板と一緒に置いてあったと言う。前の住人の忘れ物かしらね――と、その時はそんな程度の疑問だった。

 翌朝、清彦の号泣で目が覚めた。何事かと見に行けば、例の看板に描かれた清彦の絵が消され、代わりにそこには女性を模したものだろう、生理的に受け付けない程の気味の悪い人物画が描かれていた。

 清彦は気の毒にも、自分の絵を消されたショックと、まだ朝も暗い中で見たその絵の衝撃で、その場で失禁をしていた。

 私は清彦をお風呂に入れると、その女性の絵は消しておいた。夫にその話をすると、「知らないものだし、捨ててしまおう」と言う。それには私も賛成だった。

 だが、仕事を終えて家へと帰れば、学校から帰った清彦がまたしても看板にお絵かきをしているではないか。そして今度のも相当な時間を掛けたのだろう力作で、清彦自身もとても得意そうだった。

 だがまたしても翌朝には、絵が描き換わっていた。しかも前作とほぼ同じ、気味の悪い女性の顔の絵で、前と違う点はうつむき加減だった顔がほんの少しだけ上向きになっていると言う所。

 後でこっそり、夫が「母かなぁ」と私に呟いた。消去法で、私でも夫でもないならば、もう残りは義母ばかりなのである。だが――

「母の絵を見た事があるけど、とても稚拙で、あんなに念が籠もるようなものは描けない筈だ」と言う。

 その日、仕事から帰るとまたしても清彦が看板に絵を描いている。しかも今度は消されないようにと、キッチンから持ち出したラップで、看板をぐるぐる巻きにしてしまったのだ。

 だがその翌朝には、また同じように絵が描き換わっている。ラップは無残にも手で引き千切られて床に落ちていた。

「これ多分、首を吊って死んだだろう女性の顔だよ」と、夫は言う。言われてみれば口から舌が出て、目もうつろなまま見開かれている。その上、毎日ちょっとずつ変化しているのは、遺体の状況変化なのではないかとさえ言うのだ。

「顔を上げているんではなく、腐敗が進んで下に垂れ下がって来ているように見えるんだ」

 確かに、そんな感じにも見える。私は意を決して、清彦が学校に出て行ったタイミングで看板を捨てに行った。するとゴミの集客所で、ふいに声を掛けられた。「あら、この看板どこにあったの?」と。

 どうやら同じ団地に住んでいる主婦の方らしい。聞けばその看板、定期的にここに捨てられているのだと言う。

「でも、誰かが拾ってまた捨てに来るのよね」と、不思議そうな顔で言うのだ。

 その日の晩、清彦が寝た後、「あれ、私が描いたの」と義母が私達にそう話した。

「どうして?」と、私と夫とでそう問えば、「分からないの」と、顔を手で覆って泣き始める。

 とりあえず看板自体を捨ててしまったのだから同じ事はもう二度と起きはしなかったが、義母は今でも時々、「何かに憑かれたようだった」と語る。

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