#366 『召し名』

 今ではもう見る影も無いのだが、隣町へと続く街道はかつては土埃舞う未舗装の道で、車一台が通るのもやっとな狭さだった。

 その街道のとある場所に、“メシナ”と言う者が棲んでいたらしい。

 らしいと言うのは、私にはまるで見えていないからだ。だが、祖父である喜吉(よしきち)じいさんには見えていたらしく、まだ小さかった私の手を引きその場所を通ると、「こんにちは」と良く挨拶をしていたものだった。

 メシナの棲む場所はその街道の中でも最も暗く、どことなく道そのものも湿っていたように思える。鬱蒼と茂った木々が余計に辺りを暗くさせ、草木を分けてもその奥が覗けないような場所にそれはいた。喜吉じいさんが声を掛ければ、「精が出ますな坊ちゃん」と、どこからともなく声が聞こえて来るのだ。

 どうして喜吉じいさんが“坊ちゃん”と呼ばれていたのかは定かではないのだが、もしかしたらそれこそ“坊ちゃん”と呼ばれるぐらいに小さい頃からの付き合いだったのかも知れない。ただ、喜吉じいさん曰く、「お前と同じで俺にもメシナさんは見えねぇよ」と言うのだ。

 ある日、メシナは、“召し名”と書くのだと、じいさんに教わった。その名の通り、かつては喜吉じいさんもそのメシナに名前を付けた事があると言うのだ。

 ただ、付けたきり忘れたと、じいさんは笑う。しょうもない話である。

 私が中学に入った頃、喜吉じいさんは亡くなった。私はどうしようかと迷ったのだが、その件をメシナに伝えようと、一人でその棲み家へと向かったのである。

 果たしてメシナは――いた。姿こそ見えないが、私が「こんにちは」と声を掛ければ、どこからともなく「精が出ますな」と聞こえて来たのだ。

 じいさんが亡くなった事については、何も反応が無かった。代わりに、「名をください」と私にそう強請(ねだ)るのだ。

「三日待って」と告げ、私はその場を立ち去った。そして約束の三日後、考え抜いた際に出て来た言葉をそいつに与えた。――が、与えたと同時にそれを忘れた。以降、私がそこを通り掛かる度に、「坊ちゃん、精が出ますな」と声を掛けられるようになった。

 ある日の事、前々から計画されていた通りに、道路の拡張と舗装工事が始まった。

 家の前の道路にローラー車が通るのを見て、ようやく私は「しまった」と気が付いた。

 急いで向かえば、既にメシナの棲み家は跡形も無く、ただの見晴らしの良い野原に生まれ変わっていた。

 歳月が経ち、街道は昔以上に広くなり、様々な店や家々が立ち並ぶようになってしまった。

 私の家も道路拡張の際に追い出され、別の場所へと移り住む事となった。但しそこは私自身の我が儘で、息子夫婦とは離れて少々辺鄙な場所に一人で暮らす事としたのだ。

 新しく建てた家は希望の通りにとても小さく、ほとんど森林の影に隠れた小屋のようなものだった。

 ある夕暮れの事、どう言う拍子なのか、突然、メシナに預けた名前をポンと思い出したのだ。

 ふとその名を口に出せば、家の裏手の林の中から、「坊ちゃん、精が出ますな」と聞こえて来るではないか。

「今度、私の孫を紹介するよ」と言うと、もしかしてメシナは笑っているのだろうか、裏手の木々がさわさわと揺れて風が通り抜けて行った。

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