#364 『ラングーンの三面鏡』
ミャンマーから出稼ぎに来ている、タウチャと言う男性がいる。
年齢は三十代半ばで、国には母と、妻と、娘が二人いて、彼の帰りを待っているのだと言う。
タウチャ曰く、「三年働いたら帰りますよ」との事。実際そうなのだろう、余計な出費はなるべく抑えて仕送りをしている様子だった。
ある日、タウチャが僕にこう切り出した。「日本の鏡が欲しい」と。
鏡ならなんでも良いのかと聞けば、どうやらそうではないらしい。折り畳まって三つに開く鏡が欲しいのだと言う。
「あぁ、それは三面鏡と言うやつだな」と僕は言った。女性が化粧する時に使うやつだろうと聞けば、タウチャは言葉が通じたのが嬉しかったのか、「そうです」と何度も頷いた。
だが、探すと無い。今時、手頃な新品の三面鏡などと言うものが市場に出回っている筈も無く、あっても小型サイズの洒落たものか、驚くほどに高価なものばかり。タウチャは、「母が持ってたのと同じのがいい」と、引き出しの付いた昔ながらの物を欲しがった。どうやら彼の母が持っていた日本製の三面鏡は、過去の火災で紛失してしまったらしいのだ。
だが偶然に立ち寄った中古品店で、驚く程に古めかしい、程度のあまり良くないものを見付けた。しかしタウチャにそれを見せると、値段的にも「これがいいです」と喜んでくれた。
さて、その三面鏡を購入したその翌日。タウチャが僕に会うなり、「私の部屋におばあさんがいたのです」と、訳の分からない事を言うのである。詳しく聞けば、台所で晩御飯を作って部屋へと戻ると、部屋の隅に置いておいた三面鏡の前に、見知らぬ老婦人が座っていたとの事。
「誰?」と聞けば、その老婦人、「迎えに行かなきゃ」と立ち上がり、部屋から出て行ってしまった。だが、後を追うとどこにもいない。要するに、家の中で忽然と消えてしまったと言う事である。
「それって、あの鏡にくっついてる幽霊なんじゃないかなぁ」
僕はその場で三面鏡を送るのは反対したのだが、結局タウチャは言う事を聞かず、それを母国へと送ってしまったのだ。
案の定、それから一ヶ月ほどして、「母から、“日本のおばあちゃんまで付いて来たよ”と言われました」と、僕に報告して来た。
「どうするの、それ」と聞けば、「問題無いみたいですよ」とタウチャは言う。なんでも出て来たのは一度きりで、それからはもう姿を見せないのだそうな。
そして僕は、向こうで起こった事について話を聞き、思わず鳥肌を立てた。
タウチャの母は、送られて来た三面鏡を部屋に置き、とても喜んでいたと言う。だが、到着したその翌日、その三面鏡の前に日本の人とおぼしき老婦人が座っていたのだと言う。
どなたでしょうかと聞けばその老婦人、日本語なのだろう分からない言語で、しきりに何かを聞いて来た。すると少しだけ言葉の分かるタウチャの妻が、「ここはヤンゴンです」と答えた。それを聞いた老婦人、何度か「ヤンゴン……ヤンゴン……」と呟く。だが、タウチャの母が、ご年配の方だからと思い、「昔はラングーンと呼ばれていました」と告げると、突然その老婦人の顔色が変わり、「ビルマ?」と聞くのだ。
もう既にそうは呼ばれなくなった国名ではあるが、「そうです」と告げると、その老婦人は両手で顔を覆い、泣きながら家を出て行ってしまったと言う。
「出て来たのはそれっきりです」と、タウチャは言う。
その後、タウチャの妻が、「しきりに誰か、男性の名前を呼んでいた」とそう言っていたそうだ。
それを聞いて僕は、一つだけ仮説を立てた。もしかしたらその三面鏡は相当に古いもので、戦前からあったものではないかと。そしてそれに憑いていた老婦人は、戦争に行ったきり帰って来なくなった夫を、今も待っているのではないかと。
そして帰って来なくなった夫は、もしかしたら旧ビルマの戦地へと赴いたのではないか。
全ては僕の憶測でしかないのだが、僕には、遠い異国の地でようやく再会出来たとある夫婦の物語を信じてやまないのである。
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