#359 『入院患者に花束を』
救急で運び込まれ、そのまま入院となった老人に、言い寄られているのである。
運ばれて来たのは、北川さんと言うおじいちゃんだった。自宅の階段で足を踏み外し、酷い打撲を負った方だ。
年齢は七十八歳だと言う。その人が、私の顔を見る度に、「籍入れんか」とか、「嫁に来てよ」と言い寄るのだ。同じ看護師の実習生仲間ではその話題で持ちきりだったが、聞けばどうやらそうやって言い寄っているのは私だけみたいなのだ。
実直なプロポーズが嬉しくないと言えば嘘になるが、年齢差は六十歳に近い。それじゃあ下手したら“ひ孫”だよねと皆で笑う。それでもその北川さんは本気なのだろうか、まるで諦める事をしない。
「保険金降りれば、結構あるぞ」
「土地も家も全部あんたにあげるわ」
と、しまいにはかなり生々しい話題になる。それでも退院の日は来てしまうもので、出て行く日にそっと私に紙切れを手渡して、「連絡待ってるよ」と笑って帰って行ったのだ。
実習生仲間は、「めっちゃいい話なんだから、チャンス逃すな」と私を煽るのだが、さすがにそれは無いだろうと思っていた。だが断るにしてもちゃんと逢って、謝ろうとは思っていた。
休日の午後、駅前で花束を購入し、連絡先の紙片を持ちながら北川家を訪ねた。家は想像とは違い、かなりの大きさの瀟洒な邸宅だった。身寄りは無いと言っていたが、一人で暮らすには大き過ぎるだろうとすら感じた。
インターホンを押す。だが応えは無い。ドアをノックするがやはり何の応答も無い。
留守なのかと思いドアノブを回せば、それはするりと開いた。「北川さん?」と、開いたドアから声を掛ければ、驚いた事に向こうのリビングで倒れ込んでいるであろう人の足首が見えたのだ。
「北川さん!」と、大声を上げて玄関を上がる。そうしてリビングへと飛び込めば誰もいない。先程見えた足首も無い。どう言う事だと頭を悩ませていると、リビングとキッチンを隔てているドアの曇りガラスが、ぼんやりとその向こうに佇む人の姿を映し出していた。
「北川さん?」と声を掛けるも、その姿はどう見ても女性のものなのだ。私はそっとドアに近付き、「失礼します」と開けるも、やはりそこにも誰もいない。
妙だなと思いつつキッチンを眺める。――おかしいと、私は思った。
七十八歳と言えば、完全に昭和の初め頃の生まれの筈。差別する訳ではないが、そんな年代の人がこんなセンスの良い近代的なキッチンを使うものだろうかと思ったのだ。
瞬間、向こうの廊下側からタタタッと階段を駆け上る音。私は急いで廊下へと出て、「北川さん?」と声を掛ける。だが階上は窓の雨戸が閉まっているのだろうか、見上げるだけでも真っ暗なのだ。
今の足音は北川さんの筈がないと思った。なにしろ打撲で入院していたのだから、普通ならば歩くのですらまだ不自由な筈なのである。
二階の奥の部屋に、閉まっているカーテンの光がうっすらと見える。そしてその前を、誰かがすうっと通って行く影が映った。その姿は完全に若い女性のそれで、切り揃えたショートカットの髪が揺れているのが見えた。
「誰――?」と、思った瞬間だった。どうして今まで気付かなかったのだろう、その暗い階段の真上には、ずらりと居並ぶ女性の顔、顔、顔――。その顔の全てが階上から私を見下ろしていたのだ。
転ぶようにして尻もちを突く。後ずさりしながら玄関へと向かい、そこで限界が来た。脱ぎ散らかした筈の私の靴が、玄関先できちんと揃って置かれていたのである。
「いやあぁぁぁぁぁーーっ!!!」と、靴を持って、裸足で玄関から飛び出す。
それからどうやって家に帰り着いたのかはあまり覚えていない。ただ、あの家が異常であった事だけはしっかりと覚えていた。
それきりもう二度とその家へと向かう事は無かったのだが、年に一度、私の誕生日が来る度に、“北川より”とメッセージの書かれた花束が届くのである。
その届いた花束はいつ見ても、私があの家に置き忘れて来たものに良く似ていた。
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