#351 『残り湯』
仕事と育児、そしてと家事とで疲れてしまい、布団で倒れ込んだまま真夜中となっていた。
あぁ、いけない。お風呂溜まったままだ。せめてお湯を抜いて、化粧落としてからじゃないと眠れないわ。思いながらのろのろと身を起こして洗面所へと向かう。
浴室のドアを開けると、まだほんのりと生暖かい湯気を感じる。思った通り、お湯は張られたままだった。
お風呂の栓を抜こうとその浴槽に手を掛けた瞬間、残り湯の底の方で“黒い何か”が沈殿しているのに気が付いた。
「何これ……」瞬間、娘のどちらかが、悪戯で底に何かを沈めたまま放っといたものかと思った。
だが、違った。底に溜まった“黒い何か”は、私の見ている前でずるりと動き、まるで生き物か何かのように揺蕩うのだ。
「きゃあああああ――」
尻餅を突き悲鳴を上げる。やがてその声を聞いて、寝ていた夫が駆け付けて来る。私は夫に「何かいる」と浴槽を指差すのだが、それを覗く夫は、「何もいないよ」と呆れ顔。見れば確かに、その“黒い何か”は忽然と姿を消していた。
釈然としないまま翌朝を迎えた。以降、家では時々、水にまつわる怪異が続くようになった。
例えば、台所。そこには誰もいない筈なのに、「べたん――ボコン」と、まるでシンクに熱い湯を捨てたかのような音が聞こえる。が、見に行けば何も無い。
トイレは誰も入っていない筈なのに、勝手に水が流れる時がある。洗面所では水道が流れっぱなしになっている事がある。要するに、怪異は水廻りの全てで起こっていた。
ある日の夜。一緒にお風呂に入っている娘二人が、浴室から叫び声を上げていた。私が飛んで見に行けば、二人は湯船の中で立ち上がりながら泣き顔を作っている。
私は瞬時に気が付いた。湯船の底に沈む“黒い何か”の存在に。
服が濡れるのも厭わず、娘二人を抱きかかえるようにして外に出し、急いで湯船の栓を抜く。するとその“黒い何か”は、まるで魚のように排水溝へと頭を突っ込み、びちびちと肢体をしならせ吸い込まれて行った。
すぐにマンションの管理センターに連絡をした。水が変だ、すぐに貯水槽を調べて欲しいと。
だが、貯水槽には問題が無かった。むしろ立ち会った水道局の人に、「例えあなたの話通りだったとしても、そんなものが蛇口通って出て来ますかね?」と言われて、私は黙るしかなかったのだ。
しかもマンションの他の部屋では同じ現象は起こっていない。ならば我が家だけの怪異となる。するとそれを聞いた夫は、少しだけ悩んだ後、「ちょっと出掛けて来る」と言って、家を出て行ってしまった。
夕刻、近所で騒動が起こった。近くの借家で一人暮らしをしていた老婦人が、孤独死しているのが発見されたのだ。しかもそれを発見したのは私の夫で、発見場所は浴槽だったらしい。
「何があったの?」と後で聞いてみれば、一週間ほど前、娘二人と散歩をしていた際、あの家のお風呂場だろう窓がカラリと開いて、「連れてってぇな」と、声が聞こえたのだと言う。
老婦人は死後十日も経っていたらしいのだが、例の浴室の窓は内側からしっかりと施錠されていた。
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