#347 『ハッシシ』

 かつて俺が舞台俳優をしていた時の事だ。

 目指す目標と現実との温度差が激しすぎ、一時期だけ“ハッシシ”と呼ばれる薬物系に手を出していた。要するに、ラリって現実逃避をしなければ生き抜く事が難しかった時代だったのだ。

 四畳半の部屋へと籠もり、葉っぱに火を点す。三口目辺りで飛び始める。空腹時ならばもっと効果は高い。俺は孤独に涎を垂らしつつ歪んだ世界に身を浸していると、“いつも”の彼女が現れる。ぽっちゃり体型を茶系のシャツとジーンズパンツで包み、ひっつめた髪に丸眼鏡と言う、いかにもな野暮ったい女が出現して、俺がラリっている間を好き勝手しながら過ごすのだ。

 その日は天井の羽目板を外して現れた。頭からずるりと液状化しながら床へと降り立ち、勝手知ったる要領で珈琲を淹れ、テレビを点け、俺が見ている前でのんびりとくつろぎ始める。

 時には俺の前まで来て何かを楽しそうに話したり、一緒に横になって眠ったりと、とても適当に振る舞う。だが俺は知っていた。これは俺自身が作り出している幻覚なのだと。

 それが証拠に、クスリが切れるといつの間にか女はいなくなっている。点いていたテレビも消えているし、飲み残しの珈琲のマグさえ見当たらないからだ。

 そんな彼女との、ラリっている間だけ同棲が一年ほど続いた。

 ある日、俺は夢を見た。どう言う訳か、その彼女と一緒に舞台へと立っていると言う夢だ。

 眩しいぐらいのスポットライトを真横から浴び、俺と彼女は手を取り合ってぐるぐると舞台の上で回り続ける。どう言う訳か俺にはその行為がとても楽しく、ずっと笑い続けていた。

 見れば彼女も楽しいらしく、俺に向かって何か台詞を吐きつつ笑顔を見せる。そして夢は、暗転で幕を閉じた。

 これって正夢にでもなるのではないかと疑うぐらいに、リアルな夢だった。

 その頃、俺はろくな役ももらえずに腐っているばかりだったので、これが転機にでもなればと思いながら夜のバイトへと出た。

 翌朝の、明け方頃。バイト終わりで、ぐったりと疲れて帰る途中の事。信号待ちをしていると、ふと俺の横に誰かが立った。記憶しているのはそこまでで、気が付けば俺は病院のベッドの上だった。

 全身六カ所の骨折と、酷い打撲。頭にも衝撃を受け、軽い記憶障害があるらしい。交通事故で撥ねられた瞬間の事を寝ながら聞かされたのだが、俺には全くその前後の記憶が無くなっているのだ。

 俺と一緒に撥ねられた女性は即死だったと聞く。俺は何度もその女性の事を聞かれたが、知らないものは知らないとしか言いようが無かった。なにしろ一緒に撥ねられたと言われても、その人の顔も姿も見ていないのだから。

 それから五年が経つ。俺はなんとか社会復帰は出来たが、もう舞台には立てないだろう後遺症が残った。

 相変わらずハッシシはやめられていないが、例の女性はもう二度と俺の幻覚の中には現れてはくれなくなった。

 時折、思う。あの時に見た夢は実際に起こったワンシーンで、真横から照らされていたスポットライトは、単なる車のハイビームだったのではないかと。

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