#330 『オスロの酒場にて』

 ノルウェーの首都であるオスロにて、奇妙な日本人と出会った。

 滞在二日目、地元の人に連れられて夜の酒場へと繰り出した時の事だ。綺麗にアイロンの目の掛かったスーツを着こなす男性が私に近付いて来て、「もしかして日本の方ですか?」と聞いて来たのである。

 私が「そうです」と答えると、その男性は嬉しそうに頷き、「少しで良いので日本語でお話し出来ませんか?」と来る。どうやら日本語での会話に飢えているらしく、「構いませんが」と答えると、その男性は私にビールを一杯奢ってくれた。

 特に他愛もない会話ばかりが続いた。話はほとんど彼からの質問ばかりで、どうしてここに観光に来たのか、今日本はどんな感じかとか、そんな話を聞きたがる。

 ほどほどに酔った私は、話の継ぎ目で逆に質問をしてみた。「あなたこそどうしてここに?」と聞けば、男性は少し気まずそうな表情で、「逃げて来たんです」と答えた。

 私は咄嗟に“犯罪か”と思ったのだが、同時に男性は、「犯罪の類ではないですよ」と笑い、そして「いや、そうでもないかなぁ」と続けた。

 なんでも男性は、日本の“とある者”に追われている身なのだと言う。

「私はそれまで神職に就いておりました」と言う。要するに神主か何かだったのだろう、だがどうしてそんな人が逃げなきゃいけないのかが分からない。

「いや、実はとても大事な祭事にて粗相をしましてね」と男性。当時の神社の当主であったその男性は、千年もの昔から伝わる“忌み物”の鎮魂の祭事の際に、祝詞の読み間違いとその手順を甚だしく間違えてしまったらしい。

「鎮めるどころか解き放ってしまいました」と男性は笑い、それ以降、その“忌み物”が彼の身体を付け狙い、追って来ているのだと言う。

「向こうは凄くゆっくり追って来ているので、国外逃亡すればゆうに数ヶ月は時間を稼げるのですよ」と、男性。だが、そろそろ逃げなきゃいけない時期なので、明日にはまた機上の人となるのだと笑っていた。

 酔っていたせいか彼の話は半信半疑で聞いていたのだが、帰国後少しして、偶然にも彼のいたと言う神社のすぐ近くを通り掛かる事となった。

 疑っていた訳ではないが、そこの神社にて彼の名を出せば、そこの若い神主さんは彼の話を詳しく聞きたがったのである。

 私がその男性の事を一通り話し終わった後、ついつい疑問に思っていた事を訊ねてしまった。「一体、何者に追われているのですか?」と。

 するとその神主さん、庭の一点を指さし、「あれです」と言う。見れば玉砂利の上に横たわる黒い影が二本。「何ですか、あれ?」と聞けば、「おや、見えるのですね」と、逆に驚かれた。

 なんでもそれは、“忌み物”から伸びて出ている二本の腕なのだそうな。

「あの方向を見れば、父がどっちの方向に逃げているのかが分かりますね」と、その神主さんは苦笑しながらそう言うのだった。

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