#325 『お揃いのマグカップ』

 眼前に広い川が望める場所で喫茶店を経営しているのだが、ある時、とんでもない客がやって来た。

 それは時々、店に来てくれている男性なのだが、その手には骨壺が入っているであろう、布を被せた箱を抱いているのである。

「申し訳ありません。失礼なのは分かっているのですが、“妻”と最後の珈琲をいただきたくて」と言われ、ハッとした。確かにその男性はいつも、女性と一緒に来店してくれていた人なのである。

 当然、断る理由は無い。「どうぞ」と笑顔で迎え入れると、男性はいつも二人で座っていた奥のテーブル席へと向かう。

 真向かいに箱を置き、男性は「ブレンド二つ」と注文をした。

 淹れ立ての珈琲を運ぶと、「ここ、妻が大好きだった眺めなんです」と、こちらに顔を向けないまま男性は涙声でそう言った。

 以降、男性は前にも増して店へと来てくれるようになった。いつも通りに奥のテーブル席へと向かい、珈琲を二つ注文する。そしてものの一時間ほどそこにいて、そして帰るのである。私としてはとても気が楽な常連客の一人となった。

 ある時、その男性が、「もし可能でしたら」と言う前振りの後、新聞紙に包んだマグカップを二つ、出して来た。「今日だけ、これで淹れていただく事は出来ますか?」と聞く。私は笑顔で、「何の問題もありませんよ」とそれを受け取る。男性はとても嬉しそうな表情で、「ありがとうございます」と笑った。

 帰り際、洗ったマグカップを差し出しつつ、「良かったら店に置いておきましょうか?」と、その男性に尋ねた。「今後はこれでお出ししますよ」と付け加えると、男性はとてもほっとした顔で、「よろしくお願いします」と頭を下げて帰って行った。

 それから二、三日後の事。とある中年男性がふらりと店にやって来たかと思うと、カウンターに座るなり、「なんですか、それ」と、例のお揃いのマグカップを指さして聞いて来た。

「リザーブのカップです」と、私が冗談交じりでそう言えば、その男性は咄嗟に背後を振り返り、いつもの常連の男性が座るテーブル席を凝視した後、「そのカップ、私がもらって帰ります」と言うのだ。

「いや、そんな訳には行きませんよ」と私が断ると、「もうその客は二度とこの店には来ないから、私に渡しなさい」と、強い口調で言うのである。

「どう言う意味ですか?」と問うと、「そのまんまの意味です、とりあえずそれ、こっちにください」と、男性はカウンター越しに手を伸ばすのだ。

 意味も分からずマグカップを二つ手渡すと、「ご主人の好意に甘え過ぎでしょう」と、男性はそれを奥のテーブルへと運ぶと、何やら手で空中を切るような仕草をした後、マグカップをジャンパーのポケットにしまい込んで、飲みもしない珈琲のお金をカウンターに置いて出て行こうとする。

「お客さん、困りますよ」と私が引き留めると、「万が一その夫婦の客が来たら、私が弁償するからと言ってここに連絡させなさい」と、名刺を渡された。

 私は“夫婦の客”とは一言も言ってない筈なのに、どうして分かったのだろうと不思議に思った。だがその男性の言う通り、例の常連客は二度と来る事が無かったのである。

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