#324 『奈津さま』
昭和三十年代頃の話である。
我が地方は背景に出羽三山が望める、そんな場所にある。もちろん雪深い所なので、人口はそれほど多くはない。
我が家は元より、“××家、別家”と呼ばれていた。当然、別家であるからには本家もある。そしてその本家には、“奈津さま”と呼ばれる方がいた。
奈津さまは、当時の私よりも二、三歳ほど年上で、常に羽織りの着物を着込んだ、長い黒髪のとても綺麗な女性だった。
但し、何かしらの知的障害を患っていたらしく、一切人とは会話せず、うつろな目で独りきりでいる事の方が多かったように思える。
何故彼女が、親類縁者から“さま”を付けて呼ばれていたのかは知らない。ただ、我が家はとある宗教の上位に位置する家系だったようで、それに関係していたのではないかと推測出来る。
ある時、事件が起きた。それは私が小学校の六年生に進級する直前の頃、本家から奈津さまが亡くなったと言う知らせを受け、家中が大騒ぎになった。
「お取り潰し」とか、「檀家が黙ってはいない」などと言う言葉が飛び交っていたが、当時の私にはなにがなんだかまるで理解が出来なかった。
告別式には私も参加した。だが、亡くなったと言われる奈津さま本人は、いつも通りに本家の人々と一緒にいるのである。
だが、壇上に置かれた遺影もまた奈津さま本人の物だし、私の理解がまるで追い付かない。
やがて式は始まり、大勢の親類縁者が小声で不穏な事ばかりを口走るようになる。次第にその声はあちこちでどんどん熱を帯びて大きくなり、お坊さんの上げる読経の声ですらかき消せないぐらいとなった。
「なぁ、××さんよ! この後、本家の跡取りどうすんのよ!?」と、とある男性が本家に向かって怒鳴り声を上げる一幕さえあった。するとそれを聞いていた奈津さまは、袖で口元を覆ってそっと笑みを見せたのだ。
やがて柩の蓋が開けられる。当たり前のように、そこには奈津さまの遺体が横たわっている。
皆がその柩の中に花を差し入れようとしていた時、奈津さまは自らの柩の横に立ち、花を入れる人々の顔を凝視するかのように下から覗き込む仕草をしていた。
私にはそれが怖くて怖くて仕方なく、「私いやだ」と母に言ったのだが、「行かんと怪しまれる」と、訳の分からない事を言われ、渋々と柩に向かった。
やはり私も同じようにして、奈津さまに顔を覗き込まれた。見開かれた目がとても怖かったのだが、それにはまるで気付かない振りをして、私は席へと戻った。
式が終わり、火葬場へと移動する。柩が窯の中へと入り点火されると、泣き崩れる人の姿が多く見られたが、それは間違いなく“奈津さまを偲んで”の事では無かったのだと思う。
そして奈津さま本人は、ずっと窯の入り口の真ん前に立っていた。私はそれを遠くからそっと覗いたのだが、間違いなく彼女の顔は笑っていたと思う。
それから間もなく本家が全焼し、そこの主人の遺体だけが焼け跡から見付かった。そしてそれを追うように親類縁者の引っ越しや夜逃げが相次ぐようになり、私の家族も引っ越しを余儀なくされた。
以降、奈津さまの話題は誰の口からも登る事は無かった。
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