#321 『遠くからいらっしゃったもの』

 夕方頃だったと思う。家へと帰るとお客さんが来ていた。

 居間には両親と、背中しか見えない客が一人。やけに髪が長いのだが、なんとなく女性ではないような気がしていた。

「ミハル、遠くからはるばるいらっしゃったのよ」と、私を見付けて母が呼ぶ。私は「こんにちは」とそのお客さんの背に呼び掛けたのだが、なんの応えも無い。

 私は部屋へと向かい、その日の宿題を片付けていた。やがて晩ご飯になるだろうと思っていたのだが、六時になっても七時になってもまるでその気配が無い。そっと足音を殺して階下へと降りてみれば、どうやら先程の客がまだいるらしく、「ホント、遠くからはるばるいらっしゃってねぇ」と、母が笑っている声が聞こえる。

 そんなに大事なお客さんなのかしらと、仕方なく部屋へと戻る。だが客は、夜の九時になってもまだ帰らない。さすがに私は痺れを切らして居間へと向かい、「ねぇ、晩ご飯はまだ?」と聞けば、「ミハル、わざわざ遠くからいらっしゃったのよ」と、母が引き攣った笑顔でそう言った。

 なにかおかしいと私は気付いた。父は父で、ずっと腕組みをしたまま顔に笑顔を貼り付かせている。そして母はと言えば、「遠くからはるばるいらっしゃって」と、そればかりを繰り返しているのだ。

 じわりと、私に背を向けて座っているその客の存在が、濃く、強くなったような気がした。

 どうしよう、どうしようと困っていると、突然電話が鳴り出した。普段は両親がいる時には電話には出るなと言われていたのだが、何故かその時は「おばあちゃんからだ」と言う直感があり、居間から飛び出ると急いで廊下の電話の受話器を取った。

「ミハルかい?」と、S県に住んでいる祖母の声。私は今のこの状況をどう説明しようかと迷っていると、「コウジはどうした?」と、父の名を出す。私は「なんか動けないみたい」と言うと、「馬鹿だねぇ」と呟いた後、「今すぐ向かうから、ミハルは絶対に寝ちゃ駄目だよ」と祖母は言うのだ。

 私は電話を切った後、祖母に教わった通りに台所へと向かって濃い塩水を作った。もしも眠くなったらその塩水を飲んで、必死に我慢してなさいと教えられたのだ。

 私はコップ一杯の塩水を持って部屋へと戻ろうとしていると、私の姿を見付けた母が、「ねぇミハル、遠くからいらっしゃってくれたのよ」と、笑顔のままヒステリックな声で言うのである。

 見れば母はぼろぼろと涙をこぼしている。そしてその隣で父が目を瞑り、首を傾げていた。

「お父さん、寝ちゃだめ!」私は叫んで父の傍へと飛んで行き、その口に無理矢理に塩水を流し込んだ。

「げふっ!」と父は塩水を吐き、目を開けたかと思うと、突然「出て行けーっ!」と怒鳴ってテーブルの上へと飛び乗り、その勢いで向かいに座る髪の長い客の顔面を足で蹴り飛ばした。

 蹴られた客は、しわくちゃの顔の老人男性だった。そしてその老人は倒れたと同時に「ずるり」と音をさせて蛇のように身体を伸ばし、蛇行しながら廊下へと逃げ、細く開いた窓の隙間から出て行ってしまった。

 祖母が家へと到着したのは、それから三十分も後の事だった。私には「もう部屋で寝なさい」と優しく言ってくれたのだが、両親は何故か相当遅くまで祖母に怒られているようだった。

 後日、「あれって何だったの?」と祖母に聞くのだが、詳しくは教えてくれなかった。

 ただどうやらその謎の客は、母が家へと連れて来てしまったらしく、後に私は母に随分と謝られた記憶がある。

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