#320 『彼氏の家にて』
彼氏の家に、泊まり掛けで遊びに行った時の話だ。
彼氏に兄がいると言う事は、以前より話の中で聞いていた。双子ではないものの学年的に同じだったらしく、小学校から中学校まで同級生として暮らしていたと言う。
晩ご飯の時に、初めてその兄と顔を合わせた。彼氏と似てはいるものの、タイプはまるで違うようで、とても物静かで引っ込み思案な印象を受けた。
兄との会話は全く無かった。ただ時折、ちらりとこちらを盗み見る視線だけは感じていた。
深夜、ひどい尿意で目が覚めた。時計を見れば三時半と言う時刻。私は部屋を抜け出し、廊下の突き当たりにあるトイレを目指す。その際に、兄の部屋のドアの下から灯りが漏れ出ているのを見付け、あぁまだ起きているんだと思い通り過ぎた。
用を足し、再び暗い廊下を歩いて戻れば、いつの間にか兄の部屋の電気は消えていた。
寝たのか――とは思ったが、どうやらそうではないらしい。暗がりではっきりとは見えないのだが、その兄の部屋のドアは開いているようにしか感じられない。
そっとその前を通り過ぎる。何故か部屋の中から強烈な視線を感じた。私はそちらを見てはいけないと思いながらもそっと横目で部屋の方へと向けば、窓の外からの灯りで、開いたドアの前に佇む人影を見てしまったのだ。
それには、悲鳴を上げそうになるぐらいに驚いた。なにしろ真っ暗闇の中、手を伸ばせば届きそうなぐらいの距離に、人影があるのだ。私は小走りで廊下を急ぎ、彼氏の部屋へと飛び込んで、ベッドの中に潜り込んだ。
気持ち悪いと、心底そう思った。いくら彼氏の兄とは言え、壁一枚隔てたその隣で寝ると言う行為は、正直とても不快なものだった。
翌朝、朝食に呼ばれて行ってみると、兄の姿は無かった。私はそれにとても安堵したものの、いつまた顔を合わせるか気が気ではなかった為に、「今日は用事があるから」とすぐに退散する事にした。
彼氏に駅まで送ってもらっている途中、彼のお母さんから電話が入った。彼氏がそれに出ると、とても驚いた表情で「すぐ帰る」と返事をしていた。
「どうしたの?」と聞けば、彼氏は手短に、「兄が薬を飲んで自殺を図ったらしい」と言う。
それには私も驚いたが、とても彼氏を助けようと言う気にはなれず、そのまま電車に乗って家まで帰った。
兄は、普段から服用している睡眠導入剤を多量に飲み込み、自殺しようとしていたらしい。但し、手持ちの薬の量が少なかった事と、途中で吐き戻した為に大事には至らなかったと言う。
だが、良く良く聞けば兄は深夜の二時頃には既に昏睡状態に陥っていたらしく、私がトイレに起きた時に遭遇した人影の存在が矛盾して来る事になる。
「ところで……君ってもしかして、昔、兄とも付き合っていた?」と、彼氏が電話越しに聞く。私が「そんな訳ないじゃん」と答えると、彼氏は言いよどみながら、「そんな筈無いんだけどなぁ」と、訳の分からない事を言う。
以降、何故か彼氏の反応が以前よりもよそよそしくなり、僅か二ヶ月程で別れる事になってしまった。そして別れ際に聞いた話に、兄の部屋から大量の絵が見付かり、それのどれもが私を描いた水彩画だったと言う。
もちろんそれは私では無い。無いのだが――どう言う訳かその元彼の兄の“魂”は私に付きまとっているらしく、時折、部屋の片隅で例の人影を目撃する事がある。
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