#315~316 『見知らぬ人の記憶』
夕暮れの帰宅時に、駅前の通りで呼び止められた。
「亜佐子さん!」と肩を叩かれ振り向けば、そこには見覚えのある懐かしい顔の男性。
お久しぶりです、お元気でしたかと、矢継ぎ早に聞かれつつ私もそれに合わせて返答はするのだが、どうしてもその方の名前と素性を思い出せない。だが知らない人ではないし、むしろとても近しい間柄だった記憶はある。だがいつ、どこで交友のあった人なのかが全く思い出せないのである。
僅かばかりの立ち話の後、「電話番号はお変わりないですか?」と聞かれ、「えぇ」と返事はしたものの、その男性と最後に逢ったのがいつなのかさえ分からないのだ。私は少々、適当に返答した事を反省した。
「ではまた、近い内に!」と男性は手を振って消えてしまった。私はその背中を見送りながら、どこかしら恋心のようなときめきさえ感じていた。
夜、三歳になる息子を寝かしつけた後、私は実家から持ち出して来た私物の中のアルバムを引っ張り出して、どこかにその彼が写っていないかを確かめる事にした。
すると、いた。他の写真群とは別になって綴じられている一枚に、その彼は写っていたのだ。
何故かそれは私と彼とのツーショットで、同じような登山服を着込み、とある山の麓であろう案内板の前で撮られた一枚だった。
写真はあった。だが私自身にその記憶が無いのだ。しかもその山に登ったと言う覚えさえ無く、むしろ山登りなど友人に誘われたって行く訳がないぐらいに嫌いな行為だった筈。更にはその山が存在する県については、足を運んだためしすら無い。どう言う事かと思い悩みながら就寝すると、その夜に夢見た光景はその写真の男性と過ごした甘い日々の記憶そのものだった。
起きれば隣では夫が軽い寝息を立てている。私は暗い寝室の中で今まで付き合って来た男性達の事を思い返してみたのだが、やはりどうしても今日逢った例の人はその中には含まれていないのだ。
翌日、パートの仕事を終えて早めの帰宅をすると、登録されていない番号からの電話があった。もしやと思って出てみると、やはりそれは昨日の男性からのものだった。
「亜佐子さん? コウダです」と、男性は言う。だがやはりその名前にもピンと来るものが無い。
明日、逢えませんかと、その男性は聞いて来た。そして私はぼんやりと、幸いな事に明日は仕事が休みだとしか考えないままに、「大丈夫です」と答えてしまったのだ。
その夜の事、息子が私の顔をまじまじと見つめ、とんでもない事を言い出した。「明日、行かないで」と。
私は隠し事を見抜かれたかのように驚いたのだが、「どこに?」とだけ聞けば、「なんだかママが帰って来なくなるような気がする」とまで言うのだ。
私は夜の内に、コウダと名乗る男性に電話を掛けた。明日は行けないと言う断りの電話の筈だった。だが――
「はい、コウダです」と電話に出たのは、何故か女性の声だった。
「あの――」と、言いかけた所で、「亜佐子さん?」と聞かれた。私が「はい」とだけ答えると、受話器の向こうから絶句する雰囲気が伝わって来る。
私はコウダと言う男性の事を聞きたかったのだが、向こうは向こうで私に何かを聞きたいらしい。しきりに、「どうして」とか、「どう言う事?」と呟く声が聞こえるからだ。
結局私は何も聞けないまま、「明日、お逢い出来ませんか?」と言う問いに承諾し、場所と時間を決めて電話を切った。
翌日、私は息子を保育園へと預けると、昨日の女性の指示した場所へと向かった。
待ち合わせの場所へと辿り着けば、私には分からずとも向こうは私に気付いた様子で、遠くからこちらに向かって手を挙げていた。
「亜佐子さん?」とその女性は聞いた後、私の顔を凝視して、「あぁ」と何か納得をした表情になった。
私達は近くの喫茶店へと向かい、そこで話をした。
「あなたは亡くなった弟の彼女に良く似ている」と、その女性は言った。もうそこからは辻褄の合わない不思議な話ばかりだった。
私が先日、駅前で逢った“コウダ”と言う男性は、既に三年も前に他界していると言う。
そのコウダの実の姉である牧子さんの話によると、弟には結婚を前提として付き合っていた女性がおり、その女性は更に早くに病気で亡くなってしまっている。そしてコウダはその女性の後を追って自殺。やりきれない姉はその弟の電話を捨てる事が出来ないまま充電器に差しっぱなしにしていた所、昨夜、私からの電話が来たのだと言うのだ。
私はアルバムに入っていた記憶の無い写真を取り出して見せる。すると牧子さんは、「弟と亜佐子さんね」と、笑った。良く良く見てみれば、確かに似てはいるが、そこに写っている女性は私ではなかった。
写真は牧子さんに渡し、家へと帰った。別れ際、「きっともう弟から電話が来る事は無いでしょう」と、牧子さんはそう言った。
確かにそれ以降、コウダと言う男性が私の目の前に現れる事は無くなったし、私自身も有り得ない自らの記憶で困惑する事も無くなった。まだ二つ、三つほど牧子さんに聞いてみたい事があったのだが、例の電話番号は既に使われていないものとなっていた。
思い返せば、どうしてあんな有りもしない思い違いをしていたのだろうと、私は首を傾げる。
事実、私の名前は亜佐子ではないのだ。
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