#314 『起きろ』

 真夜中、夫に叩き起こされた。

 時計を見ればまだ早朝とも呼べぬ午前三時半。どうやら夫はその時刻まで起きていたらしく、未だ私服のままだった。

「起きろ母さん。起きてすぐにここから逃げて」

 何故かとても怖く、真剣な声だった。私が「どうして?」と聞けば、夫は指を口に当てて「静かに」と言う仕草をした後、「話している暇が無い。早く」と、断固とした口調でそう言った。

 その後夫は廊下へと出て、長女の部屋へと向かい、同じ事を繰り返していた。

 そのただならぬ雰囲気を察したか、大学生の次女は自ら起きて部屋から出て来た。

「お父さん、どうしたの?」聞かれて私は、「分からないの」としか答えられない。そうしている間にも夫は私達を睨み付け、「早く! 早く!」と、小声で、追い払う仕草を繰り返す。

 仕方なく私と次女は上着を持って階下へと降りる。すると階段下には、夫と同じように普段着のままの義母が立っていて、両手を合わせながら念仏を唱えているのだ。

「ねぇ、ちょっと! 説明ぐらいしてよ!」と、二階から長女の叫び声。間髪入れずにパシーンと乾いた音が響く。私は咄嗟に、まさかあの大人しい夫が長女に平手打ちでもしたのではと疑ったのだが、その予感は当たっていたらしく、長女は目に涙を浮かべつつ階段を降りて来た。

 私は玄関で車の鍵を取り、娘二人と家を出た。何度か誘ったのだが、義母は念仏を唱える事をやめず、家の中へと残った。

 家の庭先で、車に乗り込むなり長女が泣き出した。「あれ、お父さんじゃない!」とまで言い出す。そして私自身もなんとなく、そんな気がした。

 結局私達はどこにも行かず、庭先の車中で夜を明かした。朝日が昇り、「もういいでしょう」と玄関を開けるも、中からチェーンを掛けられており全く開く様子が無い。

 隙間から夫の名を呼ぶが応答は無く、階段下で正座したまま動かない義母の背中だけが見える。

 さすがにこれはまずいと私は思い、納屋から針金を切る用のカッターを持ち出し、玄関のチェーンを砕き切った。

 義母は、座ったまま失神をしていた。階段の上を睨んだまま目を開けており、引き攣った形相が恐怖を物語っている。

 夫は寝室にいた。何故か一人だけぐっすりと布団の中で寝ているのである。その後、救急車が義母を運んで行ったが、その際にも夫は起きる事がなかった。

 それから少しして、次女が大学を卒業すると同時に、私と娘二人とで家を出た。アパートを借りて、そこで生活をする事に決めたのだ。

 夫とはそのタイミングで離婚した。喫茶店の中で離婚届に記入をする夫の顔は終始にこやかで、まるで他人のようであった。

 その後、一度だけ義母と逢う事があったのだが、その夜の事を問えば、「どうか聞かないで欲しい」と言われただけだった。

 未だ真相は分からず終いなのである。

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