#311 『二十五日様(ニジュウゴニチサマ)』

 数年前に、僕が旅行で行った神津島での出来事である。

 格安の民宿を見付け、長逗留するつもりだった。そうしてそこに居着いて一週間目、宿の主人に、「明日からしばらくは外に出ちゃ駄目だよ」と言われた。

 どうしてと聞けば、「二十五日様だから」と言う訳の分からない返答がかえって来た。

 どうやら翌日からの三日間は何かの信仰の儀式らしく、島民は神主さん以外、絶対に外へと出ない日なのだと言う。

 内心、「損した」と言う気分で一杯だった。単身、観光旅行で来たと言うのに、そんな土着信仰の為に三日間も棒に振ると言う事である。事前に知っていたならばその日は避けて来た筈だった。

 翌朝、腕時計のアラームで目が覚めた。だが、どこかおかしい。どう見てもまだ世界は真夜中な筈の暗さである。

 時計を手に取り見てみれば、時刻は既に朝の八時。だが、窓の外はどう見ても深夜そのものの暗さ。そっとカーテンを開けて覗いてみても、まるで窓そのものに黒のペンキを塗りたくったかのように何も見えない。

 階下へと降りてみると、既に宿の主人達は起きて働いており、「朝食の準備は出来ていますよ」と言う。

「なんでこんなに暗いんですか?」聞けば主人は昨日の通り、「二十五日様だから」とだけ。まるで説明になっていない。

 テレビが点いているのだが、やけにその画面は暗く不鮮明で、番組自体も誰が何をしゃべっているのかまるで要領を得ない。思えばその食堂の照明も、いつもに比べてやけに暗い。かろうじてどこに何があるのかが判別出来る程度だ。

 食事自体も一体何を食わされているのか良く分からず、味らしい味もしない気がする。

 これは一体どう言う事だろうと思いつつ食事をしていると、いつの間にいなくなったのか、一緒に食卓に着いていた宿の人々の姿はどこにもなく、ただ食べかけの料理がそこに残されている。

 さすがに僕も焦り始めた。どう考えても昨日までの日常と、まるで違う世界に来てしまっているかのような違和感を覚えた。

 宿の中を探し回ってみても、やはり誰の姿も無い。これはどうしたものかと思っていると、いつの間にそこにいたのだろうか、暗い玄関の先で幼い女の子だろうシルエットが、「みなさんもう避難しましたよ」と言うのだ。

「避難って、どこへ?」聞けばその少女は、「二十五日様の所」と、そっと外を指さす。

 なんとなくだが、もうこの場所にいてはいけない気がした。早く皆の所に行かないと、身の危険が迫ると言う予感があったのだ。

 僕は慌てて宿の玄関を開ける。だが外はのっぺりとした暗闇に包まれており、一寸先どころか目の前のものすら何も見えないのだ。

 もはやどうしようもなかった。僕は取って返して自分の部屋へと閉じこもり、頭から布団をかぶって寝た。当然、この異変で寝られよう筈も無いのだが、どう言う訳か布団に入った途端に物凄い睡魔が襲って来て、僅か一瞬の後には寝入っていたのだ。

 ――起きると翌朝だった。少し遅れて腕時計のアラームが鳴る。階下へと降りると宿の主人が、「朝食の準備は出来てますよ」と言う。

「昨日のあれ、何だったんですか?」聞けば主人は、「だから二十五日様だって」と笑うだけ。「でももう終わりだから大丈夫ですよ」

 僕は日付を見て驚いた。一月二十六日。昨日だと思っていたのは既に一昨日で、何も覚えていないまま二日間が経っていたのである。

「あの……二十五日様って、どこに行けばあるんですか?」聞けば主人は大笑いをして、「それは風習の名前であって、地名でもなんでもないんだよ」と言うのだ。

 旧暦の大晦日と元旦である、一月の二十四と、二十五日に神津島で行われる、そんな信仰行事の話である。

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