#304 『早朝の洗濯機』

 私の朝は早い。元より朝方な人間なのだが、歳を取ってからは更に早くなった。

 大体は朝の四時前後で目覚める。そこから軽く家事をして、のんびりと珈琲を啜りながら夜が明けて行くのを眺めているのが好きなのだ。

 日の長い夏は更に早い。三時頃から起き出している場合もある。それを知っている夫は、「俺が寝る時間とあまり変わらないな」と笑う。

 だが、そんな私よりも更に早く起きている人を知っている。それは家の裏にある古いアパートメント。そこの二階に住んでいる人だ。

 私が起きると、既にそこの家の洗濯機がベランダで回っている。立て付けが悪いのか、ゴンゴンとひどい音を響かせ、毎日のようにまだ暗い早朝から動いているのである。

 そこに住んでいる人がどんな人なのかは知らない。ただ、私が起きる頃には部屋に明かりが点いていて、洗濯機が稼働しているのだ。

 ただ一つ気になるのが、そこのアパートメント自体の事。実はそこは相当に古い建物で、その朝の早い住人以外は全員出て行ってしまっている。つまりはその住人一人だけが住む、そんなアパートメントなのだ。

 ある日の事、買い物を終えて家へと帰る途中、そこのアパートの入り口がバリケードで塞がれていた。どうやら、ようやく取り壊しが決まったそうよと、近所の奥様からそう聞いた。

 とうとう全員引き払ったのねと、私は少しだけ寂しく思った。せめて私よりも朝が早い住人の方とは、一度ぐらいは挨拶してみたかったものだわと。

 そしてその翌朝。リビングの雨戸を開けると、いつも通りにベランダから、ゴンゴンと洗濯機の回る音。見上げればそこの部屋には、いつも通りに明かりも点いている。

 あら、もしかしたら取り壊し日まではそこにいるつもりなのかしら。そんな事を思い、部屋に戻ろうとした時だった。

「おはようございます」と、どこからか聞こえた。振り返れば、洗濯機の回る部屋のベランダからこちらを見下ろす人影。だがいつの間に部屋の電気を消したのだろう、窓の明かりが無いために、人の影の輪郭程度しか分からない。

「あぁ、おはようございます」と返せば、「いつもうるさくてごめんなさい」と言う。

 比較的落ち着いた口調の女性の声だ。いえいえ大丈夫ですよと返事をすると、その女性は夜の仕事をしているのでこの時間に帰るのだと言う。

 それから二言、三言、会話を交わして私は部屋に戻った。顔こそ見えなかったが、気持ちの良い人だなと私は思った。

 それから数時間の後、充分に陽が昇った頃、家のブザーが鳴り隣で解体作業が始まりますと工事関係者の人が訪ねて来た。さすがにそれには私も驚いた。まだ住人がいるじゃないですかと意見すると、向こうもまた、「どの部屋ですか?」と驚くのだ。

 すぐにそこのアパートメントの大家が飛んで来た。そして私が教えた部屋に工事関係者と共に踏み込んで行き、二階の窓から、「誰もおりませんよ」と告げたのだ。

 後で聞いた話だが、既にそこのアパートメントは、五年も前から無人のままだったらしい。

 当然の事ながら、電気も通ってはいなかったのだ。

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